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2005年07月21日(木) 病院へ行って来て思った事。


病院に行って来ました。
電車に乗って、少し歩く。
この病院に通い始めて、十数年になるかな。世に言うメンヘル系の病院だ。
その前に通っていたお医者さんが遠くの病院で院長職を務める事になったため
患者さんはあちこちへ振り分けられた。症状が軽いと判断された人が
紹介された病院が、現在私が通っているK医院であるらしい。

中学生の時、体調を崩した。試しに脳波を測ってみると私の脳波は人と
大きく違っていた。そこから色々な事が始まった。
脳波が違うと言う事が身体にどう言う影響をもたらすのか、25年前は
当然今より、はっきり判らなかった。でもって今でも完全には判らない
みたいだ。私は かなり大きな病気であると言う診断を受けた。

運が良いのか悪いのか、結果的には悪かったと思うんだけど 権威であり
名医である方に見て頂く機会を得た。診療中に政治家から電話が掛かって来て
ゴルフの約束してる。権威ってそう言うものなのか?知らないけど。
当時もかなり高齢であったこの権威の先生は「病気を持つ者は子を持っては
ならない」と言う考え方だった。結婚も望ましくない、周囲を苦しめる結果に
なるからと。患者に向かって、非常に明確にそう言った。
同じ病の子を持つからだそうだ。私が診断された病は遺伝的要素があった。
もっともな事なのだろう。だが、このまま黙って生きて死ねと言われているのと
変わらない。私は元気に通勤していたが、強い薬を飲まされて一日中寝たままと
言う事もあった。何度も倒れたが 現場には幸いな事に人が居て大事になった
事は無い。
薬の事は誰にも話さず、貧血持ちであるとだけ言っていた。

医者を変えたのは苦しかったからだ。知り合いの方にやはり専門医である
方を紹介して貰った。専門医ではあるが権威ではないらしいその先生は
おそらく、直ぐに私の病が始めに診断された物ではないと気付いたらしい。
だが薬は弱くなったが、切ることは出来ないと言う。脳波形の異常は
変わらないからだ。
そこで何年か診療を受ける。郊外で院長をなさっていたその先生は先日
亡くなった。まだお若かったのだが。
その方に今、元気なおっ母ちゃんとなり、生意気盛りの息子と居るのをお見せ
出来無かったのは残念だ。

私の子供を望んでいた人は、結局 少なかったんだろうなあと思う。
息子妊娠2ヶ月。近所の総合病院で「奇形が生まれますよ」といきなり言われる。
私はその場で倒れてしまった。これにはさすがに 後で電話で講義した。
今も猛烈に腹が立っている。まんま言う事は問題である。
K先生に泣きながら訴える。K先生は私にとって最良のスタッフが揃う
病院を紹介してくれた。そして薬を全て切った生活が始まった。
もしも私が初めに診断された病気なら、かなり厳しい事であるらしかった。
だがK先生も、どうやら私の頭には癖はあるが病気ではないと薄々判断されて
いた様子だった。

大きくなる子宮筋腫、止まらなくなる鼻血、出産日を何日過ぎてもお腹を
漂い、あげく挟まって出て来られなくなった子供と、私は予定外の所で
病院に随分迷惑を掛けてしまった。

以来6年ずっとK医院には通い続けている。定期的に脳波は測るが、現在
異常はないと言う。それでも薬を切る事は出来ず、出産後はまた飲み始めている。
薬を切ると危険な症状が起きる事があるらしい。リスクを減らすため 薬は
少量でも切らせないと言う。
元々、大病の症状と間違われた 自律神経のバランスの悪さを調節する薬も
飲んでいる。これがいわゆるメンヘル系の薬と言われる奴だ。
幼稚園の宴席も2年間皆勤で 最後まで遊んで居たが、薬を飲みながらである。
上手に付き合えば、別に何とも無い。だが量を過ごすとまずいと思う。
薬ほど、飲まなくて済むならそれが良い物もない。

「黙って生きて死ね」みたいに言われた事。「生まれた子供は奇形児になりますよ」
と、ずばりな言葉で言われた事。失敗したなあと思う事ばかりの自分の人生
だけれど、不幸だとまで思わないのは、医療を飛び越えて人間を踏み付ける
物言いをした彼らに 一矢報いてやったぜと言う勝気な自分がいるからだ。
無茶な自分を傍で、遠くで 支えてくれる人達にはいつも本当に感謝している。
人の話を 聞いた先から忘れてしまうと言う困った癖を持つK先生にも
言葉には表せないほどの御恩を感じている。





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