もうちゃ箱主人の日記
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この方の著書 『知的生産の技術』を 学生時代、愛読した。
調子に乗って、文中で推奨されていた ひらがなタイプライターまで購入し 年賀状をそれで打って出し、顰蹙をかった。 (若気の至りです、お恥ずかしい……(^^;))
当時から、新らしモン好きでした、ハイ。
それと 梅棹さんで思い出すのはご子息、エリオさんの著書『熱気球イカロス5号』 である。(1972年、中央公論社)
日本初の熱気球飛行の体験を書いたもの。 大学進学も就職もせず「誇り高き無職」(同書p.225) と、称しておられ、ほぼ同世代(1948年生)なので とても羨ましく思ったものである。 その後、どう過ごされたのか気になる。
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民族学者で文化勲章受章者の梅棹忠夫さん死去、90歳 2010年7月6日18時34分
「文明の生態史観」をはじめ独創的な文明・文化論を展開した民族学者で 初代国立民族学博物館長、文化勲章受章者の梅棹忠夫さんが、3日午前11時7分、老衰のため死去した。90歳だった。葬儀は近親者で行った。 喪主は妻淳子さん。後日、「お別れの会」を開く。 連絡先は大阪府吹田市千里万博公園10の1の国立民族学博物館。
1920年、京都市生まれ。昆虫採集の好きな少年で、旧制京都一中では 山岳部に入り、それが人生を決めた。旧制三高時代に、中学の先輩で当時京都大にいた人類学者今西錦司さんらと登山や探検に熱中。進学した京大では動物生態学を専攻し、北部大興安嶺(現在の中国東北部)や内モンゴルなどを探検。野外調査を中心とする後の「梅棹学」の基礎を作った。
戦後は、大阪市立大助教授時代の55年、京大カラコラム・ヒンズークシ学術探検隊に参加。海外での調査を再開し、研究対象を人類学へと変え、学際的な研究で独自の視点を示してきた「京都学派」の推進役にもなった。
57年に「文明の生態史観序説」を発表。文明の盛衰を気候や地理学的な条件により生態学的に把握したユニークな学説だった。欧州中心の歴史観と一線を画し、日本とヨーロッパの文明を、それぞれ人類文化発生の地の縁に生まれるべくして生まれたと位置づけた。戦後の復興期を経て、日本が自信を取り戻し始めた時期に、新たな「日本論」としても注目された。
発想の才に恵まれ、いち早く「情報産業」という概念を提唱したほか、 「知的生産の技術」(69年)などのベストセラーで時代を先取りした。
大阪万博をきっかけに政界や財界に働きかけ、国立民族学博物館を設立した。74年6月に初代館長に就任。その功績で87年度の朝日賞を受賞した。
同館長は93年春まで務めたが86年、突然失明。それでも執筆の意欲は衰えず、「梅棹忠夫著作集」全23巻が94年に完結した。
04年に肺がんなどで手術したが、この春まで毎週、顧問を務める同博物館に顔を出すなど元気だったという。
http://www.asahi.com/obituaries/update/0706/OSK201007060103.html
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追記: 揚げ足を取るようで気が引けるが 上記記事中の「 発想の才に恵まれ 」という表現は かりにも、「文化勲章受章者」に対して いささか記者の 「上から目線」 のようで 気になるのだが、思い過ごしかねぇ ……(^^;) 整理部のチェックはパスしたのか。
もうちゃ箱主人
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