もうちゃ箱主人の日記
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2009年06月04日(木) 更新しました!! 訃報 黒田恭一氏  

とりあえず速報として…


>黒田恭一氏死去…クラシックを分かりやすく解説

クラシック音楽を中心にわかりやすい解説で人気のあった音楽評論家の
黒田恭一さんが5月29日午前6時28分、多臓器不全のため
東京都内の病院で死去した。71歳。東京都出身。
告別式は6日午前11時、新宿区須賀町14の1、四谷たちばな会館で。
喪主は妻、志肇子(しげこ)さん。

早稲田大学卒業と同時に評論活動を始め、音楽専門誌や女性誌で
クラシックのほかジャズやタンゴなど幅広い分野の音楽をわかりやすく
紹介。
またNHKFMラジオ「20世紀の名演奏」などで解説を務め、
音楽家に対する愛情あふれる語り口が評判を呼んだ。

「オペラへの招待」「はじめてのクラシック」「聴こえるものの彼方へ」
など著書多数。
産経新聞に寄稿したほか、月刊音楽情報誌「モーストリー・クラシック」
で2002年から最新号までコラムを執筆した。

ZAKZAK 2009/06/04
http://www.zakzak.co.jp/gei/200906/g2009060420_all.html



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後記(6/20):
 個人的に親しいわけではないが
いつのまにか「くろきょう さん」と呼んでいた。
私の本棚の中の音楽評論家のところに
吉田秀和氏や宇野功芳氏の本と共に
何冊か並んでいる。
下の写真の本など、
 初心者の頃、何度も読み返したものである。

くろきょう さんの文章は、凝縮されたものではなく
饒舌体といっていい。
あふれるような饒舌の魅力、
 惚れたらその影響を免れない。
私の今のブログの書き方も、その影響があるかもしれない。

幸い、昔読んだ文章が公開されているので
その一部を引用して、追悼としたい。
(是非、全文もお読み頂きたい)
1973年冬の文章という。

数枚のレコードから始まった
私のコレクションも、百枚近くなり
何を聴くか、迷うようになった頃
身につまされて読んだ記憶がある。


・・・・
> http://www.audiosharing.com/people/kuroda/kanatahe/kanata_03_1.htm
 から


 ききたいレコードはやまやまあるが
 一度に聴けるのは、一枚のレコード


   《前略》
 急に、嫌な男のことを思い出してしまった。
今日書きたいと思っていたことと、その嫌な男のこととは、
まんざら関係がなくもないので、やつあたりめくが、
その男のことからはじめることにしよう。

 かりにその男をAとしておく。もうかなりの年配の男だ。
ある時Aは、しごくもっともらしい顔つきをして、レコードなんて
いうものは数多くきけばいいっていうもんじゃないんだ、といった。
そういう時の彼の表情、自信にみちていた。
しかし彼のその表情は、幾分からいばりのように見えた。
Aがろくろくレコードをきいていないのを、知っていたからだ。
もしそれが沢山のレコードをきいている人の言葉だったら、
そういうものかなと思わなくもなかったかもしれない。
Aの言葉には、いう資格のない人間が資格のないことをいった時の
しらじらしさがあった。
 さる読書家として知られるドイツの作家がこんなことをいっていたのを
読んだことがある――、
 つまり、一生に十冊たらずの本しか読まない読書家というのも
いるものだ、とその作家はいっていた。
その作家の言葉にふれたのは、まさに乱読としかいいようのない読書を
していた高校のはじめのころだった。
その言葉の重さが理解できた。
たったの十冊しか読まない読書家もいるが、一万冊読んでも読書家とは
いえない人間がいるということを、その言葉は、暗にいっているよう
だった。耳がいたかった。
当時の自分の本の読み方を、これでいいのかな、と思った。
  《中略》
そしてそれは、困ったことに、レコードのきき方についてもいえるようだ。たとえ一生の間に十万枚のレコードをきいても、読書家にひっかけて
いえば、聴盤家になれないのではないか――と思うおそれがある。
そのうしろめたさ、というか恥しさを背負って、しかし、けっこう喜々と
してレコードをききあさっている。
そうするより他に道がないように思う。

たとえ、要はきき方だという正論がその先に用意されているのを
知らぬわけではないが、より多くのものをききとるためには、
ともかくより多くきくよりしかたがない。
すぐれたきき方を獲得する、つまりおのれのきく技術をより高めるため
には、それが目的であってはならぬと思うが、
より多くきくよりしかたがない。他になにができるというのか。

 なにもすぐれた聴盤家たることを願ってレコードをききつづけている
のではないが、これをきけばあれもききたくなり、
あれをきけばまた別のあれといったように、好学心というと
きこえはいいが、興味の枝葉はしげる一方だ。
そういう一種の意地穢さをあつかいかねている人間にしてみれば、
数多くのレコードをきけばそれでいいというものじゃないという
正論すぎる正論は、きれいごとに思えてならない。
  《中略》
 本も、レコード同様、一度に一冊の本しか読めない。
しかも一日が二四時間、九十歳まで生きられてオンの字ということに
なれば、一生の間にきけるレコード、一生の間に読める本なんて、
たかが知れている。
たかが知れている時間しかゆるされていないのに、
いい本、いいレコードが多すぎると思う。
だからといってあわててどうなるものでもないが、
出来ることなら、あれもききたい、これもききたい――
 と考えているところに、
数多くきいたって、といったようなことをいわれると、
いかにも空々しく、すくなくともその男には、音楽が好きですとは
いわせないぞと、多少ムシにくわれている奥歯をギシギシこすりあわせる
ことになる。
 《中略》

 レコードコレクションとかレコードコレクターという言葉には、
うまく説明できないが、なんとなくいごこちのわるさがある。
「レコード」という言葉と「コレクション」という言葉のむすびつきの
わるさゆえといえるかもしれない。
水と油だ。水と油を無理に一緒にしたためのなじみにくさがある。
コレクションに対する情熱は、ついに物=オブジェに対しての嗜好に
支えられざるをえない。
しかしレコードは切手やコインを物と考えるようには物と考えにくい。
犬や猫、あるいはカナリヤや九官鳥、つまりいきものは、コレクションの
対象になりうるのかどうかということになる。
オブジェへの愛以外のなにが、コレクション癖の心理的基礎たりうるか。
物神崇拝とはいわぬが、ともかく物体愛なくして、コレクターの情熱を
考えることはできない。
 レコードは、物体と、敢ていきものとはいわぬが、物体でないものとの
間に位置していやしないか。
レコードそれ自体は、まぎれもない物体だ。
しかし、すくなくとも、このレコードはいいなといったとき、
それは物体としてのレコードについてであるよりは、
そこからきこえてくる音楽についてだ。
 とすればレコードをオブジェ視できないわけで、
レコードのコレクションは不可能になる。
 だがげんにこの部屋には、すでにかなりの数のレコードがある。
いかにこれは蒐集したものではないといいはっても、
もしかするとそれは理解されないかもしれない。
この部屋にあるレコード群を他人に蒐集品といわれて、
そうじゃないんだといいはって説得する根拠がはたしてあるかどうか。
 こうなると、蒐集したのか、結果としてたまたま集ってしまったのかは、精神の問題になる。
  《中略》
 すでに、レコードを、たった一度しかきけないものと思ってきこうと
提案した。
しかしそれは一度きいたらすててしまおうということではなかった。
一度しかきけないものと思って二度きくのと、何度でもきけると思って
二度きくのとでは、きき方、ききとるもの、その他さまざまな点で
ちがってくるのではないか、ということだった。
一度きいて、いいなと思ったら、もう一度ききたくなるのは当然で、
そのためにはそのレコードをとっておかねばならない。

 そのようにしてとっておいたレコードや、それにテープが、
だんだんふえていくのは、むしろ当然だ。
レコードや本がしだいにふえていくのを、むしろ自分が生きているあかし
と考えること、だってな くはない。
ききもしないレコード、読みもしない本がいくらふえたって、
これはどうということもないが、すくなくともきき、読んだということは、そのレコードなり本なりと、ひとときはかかわりをもったということで、
手ばなしがたくなり、もともときゅうくつな住いをさらに一層きゅうくつ
にすることになる。

 せんだって、テレビの映画番組で淀川長治氏が、例の口調で、
一カ月に二本は新しい映画を見るようにしましょうね、
それもできるだけいい映画を見るようにしましょうね、といっているのを
きいて、すごいことをいうなと思った。
  《中略》
 仕事となれば楽しいことばかりじゃないでしょうと、知りあったばかり
の人から、かならずといっていいほどいわれる。
レコードをきくことを仕事にしていることに対しての同情の言葉のようだ。同情された人間が、いやそうでもありませんというのは、いかにも失礼に
思え、またいささかの苦しみやつらさのあることがプロフェッショナルで
ある条件かもしれないと思い、そうですね、やはり好きなことを仕事に
してはいけませんねとかなんとか言葉をにごし、後できまって、
自己嫌悪におちいる。
 なぜその時、いや、そんなことはありません、レコードをきくのが
楽しくてしかたがないんですと、いえなかったのか。
つねに、いそいそ、ガツガツ、意地穢く、レコードをきいている。

たまたま友人がもっていたレコードを、明日までにかならずかえすから
などといって、恥も外聞もなく、ひったくるようにして借りてきいて
しまうことだってままあり、それが自慢できることではないのを
知っているが、仕事だからつらいなどということは、まったくない。
つらいことがあるとすれば、それは、ききたいレコードが、
あるいはききかえしたいレコードが沢山あるのに、
一日たった二四時間しかないということだ。

 そうやってききつづけてきて、いったいどうなっているか――
ということが、どうでもいいようなことだが、やはり気になる。
別にどうもなっていないように思う。
ことさら耳がよくなったとも思えないし、頭がよくなったとも思えないし、情操がゆたかになったとも思えない。
つまり、どうにもなっていない。にもかかわらず、レコードを、
といわずとも音楽を、ききつづけてきて、これからもまたききつづけて
いくだろう。なぜか?

 先に、一枚でも多くのレコードをきくことによって、少しでも耳の感度
がよくなるのではないか、より正しく、よりよくきけるようになるのでは
ないかといったようなはかない希望を述べた。
しかし、それが目的でレコードをきいているわけではない。
タイトルマッチを前にしたボクサーが山道を走るような意味でレコードを
きいているのではない。たのしいからきいているだけだ。

 そして、すぐれたききて、レコードの場合でいえばすぐれた聴盤家とは、より多くの歓びをそのレコードから感じとれる人のことをいうと思う。
これは、幾分こころもとない気持でいうのだが、すぐれた聴盤家たりうる
ためには、一枚でも多く、一回でも多くレコードをきくより他にするべき
ことがないのではないか。
それはついに目的たりえないとしても、そうするより他に道はない
ようだ。
 《中略》
 レコードコレクションが千枚もありましてねえ、と誇らしげにいう人が
いる。
 ヨーロッパでオペラを×百回も見ましてねえ、と自慢げにいう人もいる。
誇り、自慢したがる気持、わからぬでもなく、千枚のレコードコレクションといえば大変なものだが、それをいったが最後、彼とレコードとの、
あるいは彼とオペラ公演との、もともとは精神的だったはずのかかわりを、粗雑に物質化してしまうことになるのを、その人は多分、気づいていない。

 千枚ももっているんですよ、といわれて感じる、ある種のむなしさ、
五百枚もでも百枚もでもいいが、それはやはり、ひどく本質的なところで
のすりかえが行われているがゆえのものと思う。
いわゆる海賊盤でしかきけないフルトヴェングラーの、たとえば
ティト・ゴッビがタイトルロールをうたった「ドン・ジョヴァンニ」の
レコードをもっていることと、切手の、俗にブラックペニーといわれる
世界最初の切手をもっていることとでは、等しく稀少価値を誇れるとしても、やはりどこかでちがっていなければならない。
 ブラックペニーの場合、持っているだけですでにその切手と持主との関係は完結するが、レコードの場合、そうはいかない。
きかないかぎり、そのレコードと持主との関係は、無にひとしい。
物としてのレコードは、極端にきこえるかもしれないが、音楽の形骸でしかあるまい。その形骸に魂を宿らせうるのはききてでしかない。
  《中略》
 ききての誰もいない山奥でひとりでになりだしたグレン・グールドの
バッハを、はたして音楽といえるのかどうか、
いや、誰がそれを音楽と認めるのかということになり、そうなると音楽も
また音楽の形骸でしかなく、その形骸に魂を宿らせるのはききて以外に
いない。

 はなしをそこまでもっていく必要はないだろう。
しかしレコードの場合、あるはずのないものが物として存在してしまって
いるがごとき錯覚を与えがちで、レコードとのつきあい方のむずかしさの
ひとつは、そこに生じる。
演奏会場にいさえすれば、音楽はそっちのけで瞑想にふけっていようと、
音楽をきいたような気持になったり、きいてはいない、ただ針を通した
だけなのに、きいたレコードと考えてしまうようなことが、
やはりあると思う。
音楽をきくというのは、一般に信じられている以上に、
きわどい、むずかしい行為ではないのか。
ましてレコードとなれば――。

 しかし、友よ、すべては、それに肩までとっぷりっかることから
はじまるのではないのか、だとすると、そこでいさぎよくならねばならず、数多くきいたってという、つめたい嗤いにかかわっていられない。
(一九七三年冬)





もうちゃ箱主人