もうちゃ箱主人の日記
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2008年05月12日(月) 室内楽版 ト短調交響曲

3月末の海老澤先生の文化功労者顕彰記念パーティは
父の法事と重なってしまたため
残念ながら欠席、記念品の贈呈分だけ
参加させて頂いた。

そのお返しとして
当日「お土産」となった、
最新刊『モーツァルトの廻廊』(春秋社)と
CD『小川京子/二つのモーツァルト』(日本モーツァルト研究所)が
郵送されてきた。

前者は音友社から出ていた「モーツァルト・クロニクル」シリーズの
最新刊。
2006年の生誕250年の狂騒を、特にその商業的な醜さを
批判的に描いているようにお見受けした。

後者は、その年に日本モーツァルト研究所がおこなったシリーズ演奏会の
なかから、小川京子さんがピアノを弾いた2曲をセレクトしたもので
ピアノ協奏曲第22番変ホ長調K482(前田二生指揮新東京室内オーケストラ)と
クレメンティ編曲による交響曲第40番ト短調K550の室内楽版
(神田寛明[fl]、堀正文[vn]、藤森亮一[vc])が収録
されている。

日本モーツァルト協会とタイアップした演奏会だったと思うが
どちらも欠席したため、CDで聴けるのは大変ありがたい。

後者について
Webに、木村 元さんという方の
演奏会感想の書き込みがあったので引用します。


>ト短調K550のシンフォニーを、ムーツィオ・クレメンティが
フルート+ピアノ・トリオという室内楽編成にした編曲版(1815年)だ。
あの《ソナチネ》の作曲者として知られるクレメンティは、
1781年ヴィーンでのクラヴィーア弾きくらべで若輩のモーツァルトに
惨敗をきっしたひとだが、それにもかかわらず、
終生この夭逝の作曲家への敬愛をもちつづけたそうだ。

この編曲における主役は、クレメンティ自身の演奏を前提としているの
であろうピアノだ。
ふつう、あのシンフォニーをピアノと弦で演奏するとしたら、
冒頭のさざめくような16分音符のアルペッジョ(原曲ではヴィオラ)を
ピアノにあて、あの第1主題──印象的な半音階のモティーフ──は、
原曲どおりヴァイオリンに奏でさせたいと考えるのではないだろうか。
しかし、クレメンティはその逆をいく。
ヴァイオリンはむしろ控えにまわし、
ピアノにテーマを奏でさせるのだ。
あの切ないテーマが、和音をともなった骨太の構造体として
姿をあらわす。
それだけならば、自分のパートであるピアノを前面にだしただけと
感じられるかもしれないが、ピアノの旋律にフルートの柔らかい響きを
ユニゾンで添わせることによって、ピアノの硬質な音響ををうまく中和
させ、ピアノ対他の楽器という対立構造が立ちあらわれるのを、
じょうずに回避している。

クレメンティがこの編曲を思いたった真意はわからないが、
モーツァルトへの敬意や、当時大きな編成のシンフォニーの演奏が
むずかしかったという事情もあろう。
しかし、この編曲版は、たんなる「代用品」を超えて、
モーツァルト音楽の真価をしっかりとふまえたうえでのオリジナリティ
ある芸術へと昇華しえたものとなっている。

なによりも、モーツァルトの音楽が、きちんと地に足のついた構造を
もっていることを、この編曲版は明らかにしてくれる。
ロマンティックな個人の感情をうたった「疾走する悲しみ」などでは
けっしてない。
ここにあるのは、ゆるぎない「音楽の法則」そのものだ。
あえていうならば、モーツァルトというひとは、
音楽のもつ法則そのものを、みずからの感情としえたひとであった、
ともいえるかもしれない。

小編成でありながら、モーツァルトが晩年に到達した管弦楽芸術の神髄を
体験することのできるこの編曲版。
この夜の復活演奏をきっかけに、今後より広く演奏されるようになることを望みたい。。[木村 元]

http://bloomingsound.air-nifty.com/ongei/2006/11/_1920061106_61c4.html


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