もうちゃ箱主人の日記
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2008年05月11日(日) 『自らの着想に惚れ込む演出』

i教授が、「腹を決めて」
書かれたM日新聞の批評を
 (上記題名をデスクが付けたとのこと)
ようやく図書館で拝読しました。
(前防衛次官と同様、M新聞は取っていないので… (^^;))

趣旨の一部は先生のブログでもうかがえまするが
(http://prof-i.asablo.jp/blog/2008/04/30/3423883#c)
短いものですから、ぜひ全文を読んでほしい。

対象は、クラウス・グートの演出による
ザルツブルク音楽祭制作のオペラ《フィガロの結婚》。

アーノンクール指揮で2006年のザルツで上演され
話題になったものです。
BSで放映された時、私の「掲示板」で何度かカキコしました。

映像を観た限りでは、私には先生ほどの「怒り」は
こみあげませんでしたけれど… (^^;)
(何でも、日本公演では
 天使ケルビムを屈強な男性が演じたのだとか (笑))

フィナーレの大団円を、この演出では
「(赦しと和解の大団円を)意図して殺し、
 心の交流のない、硬直したフィナーレを作り出す。」
と、しています。

そうかなぁ、
 もう一度ヴィデオを見直しましょう… (^^;)

先生の怒りは続きます。

「自らの着想に惚れ込む演出家には、啓蒙期の市民の活力など
 無用の長物だったようだ」
「登場人物たちの愛憎関係の読み替えも、思いのままに行われた」
「要するに、いい歌を求める視点が演出家にないのである」
「愛を解さない衆生に作品を踏みにじられるモーツァルトが哀れだ」


結論として
「こうした演出はたしかに、いま世界で脚光を浴びている。
 だが流行は、かならず古くなる。
 いつまでも新しいのは、ささやかであっても、まじめに本質を追究する
 営みである。そのようにモーツァルトに向かっている人は、
 私の周囲にもたくさんいる。」



一言だけ、感想を…
これを読んで、快哉を叫ぶお方も多いと思うが
同時に、これを読んで、すべての
新しい演出(読み替え)を否定する
「おっちょこちょい」の読者が出てくるのが、こわい。

たしかに、この演出は噴飯物だった(と、先生は言われる)が
演出には
「いい演出」と「悪い演出」とがあるのであって
すべての、新しい演出(読み替え)がダメなわけではない、
というのが先生の真意。
 と私は信じている。

(名演出には違いないが、いつもオットー・シェンク演出ばかり
 観ていたのでは、観えるものが限られる、と懸念する。)
 


もうちゃ箱主人