高校(だか中学だか曖昧。中高一緒だったので……決して過去過ぎるからでは!)の地学の先生はよく、ふらり、といなくなってしまいました。 ふらりといなくなっては山に登っていたり、外国で日食を見たりして、帰ってきてはその経験話をしてくれてました。決して楽しいだけの話ではなかったけれど、その話を聞くのが好きでした。 やはりある時、ふらといなくなり、戻ってきて「外国で日食を見ていた」と。 「私もみたーい」「私もみたーい」の合唱の中、東京でも見られるときがあると黒板に2009年、と書かれました。 まだ20世紀の中、20世紀が終わることも21世紀が来ることも、自分が学生をしていないこともまったく想像外の私は、2009年になっている自分の年齢を想像してあり得ない、と思ったことをクリアに覚えています。クラスからも「私その時(自粛)歳だわー」と困惑と笑いが起きました。 老人になった姿はまだ想像がつくにしても、20代、30代となっている姿はまったく想像の外。学校と家庭だけが世界の全ての見事なまでのピーターパンです。そして、 今すぐは見られないのか、とがっかりするお嬢さん方に「自分は見られるか判らないけれど、君たちは見られるのだから」と先生は穏やかに笑われていました。 その言葉はほどなくして現実となりました。先生は、はるか上空からの日食観察に切り替えてしまわれたので。
名古屋は雨、の天気予報で長い約束の成就を危ぶみましたが、まさしく「見られるんだよ」の言葉通りに晴れ間の覗く薄曇りに恵まれ、雲が日食ガラスの役割を果たして綺麗な三日月形の太陽を見ることがかないました。 高校(だか中学。略)以来の約束はここに叶えられたのです。ガラスもなく、天気予報も悪く、そんな中でたまたま仕事が休みで玄関先で見られたのは、たぶん、先生の配慮だったのでしょう。 いや、そんなに心配はしてませんでしたが。 なにしろ、「2009年が駄目でもその次は2035年。君たちなら見られるよ」との言葉があるのです。当時からですと、そりゃちょっと長過ぎですが。
昼間にはみない鳥が鳴いて、蝉が黙って、太陽が欠けて、玄関先でわきゃわきゃしていたら近所の人がちょっとだけ日食ガラスを貸してくださって(雲フィルターが有ったのでないほうが見やすかった……眼には悪いですが)、いつもの光景ではない感じで 「あー。面白かった」 と気負わずにまとめておけたことが一番楽しかった気がします。 では、また26年後に!
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