「SPEC〜結〜爻ノ篇」のノベライズ読んで、パンフの写真を見て、せつなくなる、の、繰り返しですわ。
本日以降、SPEC〜結〜爻ノ篇について書くことはすべてネタバレです。
ネタバレに次ぐネタバレですので、まだ映画をご覧になってない(けどこれから観るかも、な)方は
回避してくださいませ。
牢獄のような場所にいる瀬文が、当麻の気配に気づいてその手を掴むラストシーン。
重過ぎる宿命を背負わされた当麻と瀬文に対する、唯一の救いが感じられる場面です。
瀬文があの牢獄に放り込まれてどのくらいたったのかもわからないけれど、
瀬文「当麻、来世で待ってろ」
当麻「うす」
という最後の会話から、ようやく巡り会えた瞬間であることは確か。
あの瞬間だけ当麻が実体化したのは、まさしく
「生と死を差別することに意味はない。他者が認じれば死者として生命を持ち、
他者が認じることがなければ、生者とて、死者の如し」(先人類の末裔・卑弥呼の言葉)
だからですね。
ふたりが手を握るシーンと言えば、
「翔」で、自分のSPECを封じるために左手の感覚をすべて失わせ、
瀬文に手を握られても「瀬文さんの手、熱くも冷たくもない」と涙した当麻に対し、
瀬文は「おまえの手は温かいよ」と言ったシーンが、一番最初の一番印象的な「手を握る」シーンでした。
でもこのときは、瀬文が当麻の手を一方的に押さえていただけ。
当麻の左手は何も感じることはできず、もちろん握ることもできなかった。
「漸ノ篇」では、暴走する自分の左手に怯えた当麻が、「自分がもし道を誤るようなことがあったら
撃ち殺してくれ」と瀬文に頼み、瀬文が「当たり前だ」と応じるシーンがあります。
そのときは手を握り合うのでなく、ひとつの銃の銃身を瀬文が、ホルダー部分を当麻が握っていて
手は触れ合っていないのです。にもかかわらず、ふたりがしっかり手を握り合っている、
全幅の信頼を置いて命を預けあっているということがひしひしと伝わってくる、
本当に美しいシーンになっていました。
漸と爻のパンフでは、当麻が左手を、瀬文が右手を、互いに繋ごうとしているかのように伸ばしています。(漸と爻の二冊を並べると)
ふたりとも目を閉じているのが、いろいろなことを暗示しているようにも思えてせつない。
で、爻の最後にあのシーンですよ!
当麻が大きく未来を変えた世界は、少しだけ時間が巻き戻り、その過去もちょっとだけ変わっています。
お馴染みの人たちが、見覚えのある場面に登場するけれど、ただ、当麻だけがいない。
当麻は最初から存在してない世界に変わってしまっています。
当然、自分を知る人も思い出す人もおらず、当麻は「魂」とも言えないほど、かすかな痕跡のような状態になって、
自分がいたはずの過去のあちらこちらを漂っている。
それを唯一見つけることができたのが瀬文。
そこで初めて、しっかりと腕を握り合うのですよね。一方通行じゃなく、銃ごしじゃなく、
手のひらだけじゃなく、お互いの腕をしっかりと。
初めて手と手がつながったのが、すでにこの世界にはいない当麻と、
その当麻を最後まで助け、世界が変わったすべてのいきさつを知っている唯一の生存者でありながら、
ただの連続警官殺しの犯人いう宿命を負わされた瀬文、というせつなさ。
牢獄の中でのこの再会もおそらく、一瞬のことなのだろうと思います。
当麻のその手の感触も、瀬文に向けられたやさしく晴れやかな笑顔も、瀬文は確かに実感できたのだろうけど、
だからといって牢獄の中で当麻が生き返ってきてくれたわけではなく、
瀬文もあのまま幽閉されつづけるのだろうと。
が、瀬文のもとにたどりつけた当麻の想い、当麻に気づいた瀬文の想い、
瀬文が気づいてくれたことによって目覚めることができた当麻の想いが、
どこか別次元の別バブルの中で、また二人の歴史を始めさせたかもしれない。
その歴史は今よりはきっと、ちょっとだけいいものかもしれない。
という想像も許されるようなラストシーンでした。
パンフで戸田ちゃんや加瀬氏がおっしゃっているように、このふたりの間には
「恋愛」はまったく感じませんが、とてつもない「愛」を感じますね。
とりあえず「手を握る」だけに着目した感想でした。
ほかにもいーーーっぱい書きたいことはあるのですが、それはまた後日。
とにかくいろいろな解釈ができそうな内容なので、現時点ではそう思っているけど、
2回目以降(もっと観るつもりだな)、解釈が180度変わったりもするかもですが。
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