せらび
c'est la vie
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みぃ


2005年10月19日(水) まるで頭の中の霞が晴れないような

ここのところの鼻喉風邪は、殆ど気にならない程度に治まって来た。

こんなものは他人に移してしまえば即時解決とは分かっていたのだが、中々丁度良い相手に出くわさなかったので、結局ひとりでだらだらと抱え込んでしまった。

やはり水を沢山飲んで、オレンジジュースその他でビタミンCを欠かさず摂取し、更に普段余り食べない「ハードコア蛋白質」である動物性のやつをがつんと摂って抵抗力を付ける、というやり方が効果的だったようである。ワタシはベジタリアンには到底なれそうにない。



ところで、最近語学の授業が憂鬱である。

夏に読解中心の講座を受講していた頃は、週三日三時間ずつの拘束が辛かったけれども、しかし久し振りに学生になって授業に行くのはなにやら楽しかった。

この秋に取っている授業は会話が中心なのだが、実際余り身に付いていない気がする。

今回は週に一回三時間なのだが、翌週に授業に行く頃には前にやった事はとりあえずすっかり忘れているし、講師も教科書通りに進めないから準備もし難いし、そもそもその教科書自体も数週間経つまで手元に無かったから勉強のしようも無かったのだけれども、しかしそれで上手く喋れないと講師は怒るし、三時間経つ頃には段々萎縮して居たたまれなくなって来る。

時折、途中でもう帰ってやろうかと思う事もあるが、折角払った授業料が勿体無いので、元を取る為に兎に角座り続けろと自分に言い聞かせる。

水曜日は辛い日である。

半分くらいは、ワタシ自身の時間の使い方が悪い事に端を発する問題である。本来ならもっと予習や復習に時間を割いて万全の体制で授業に臨みたいところなのだが、それ以外の業務や雑事に思いの外時間を取られていて、実際勉強の時間が上手く取れないでいる。

やらねばならない作業はひとつひとつこなしているつもりなのだが、そこは恐らくこのあいだの「満月」プラス「月食」がワタシに余計な作業を幾つももたらしたと見え、未だその後処理に追われているような次第である。ここ数日は兎に角余計な仕事を増やさないように、ひたすら現状維持に努めている。

それに読解の授業で目で見て覚えた単語や文法の知識は、実践的には中々するりと出て来ない。発音もそもそも型通りで無いのが多いから、書いてくれたら知ってたというようなのは意外と多いのだが、何も無いところからいきなり自分で文章を作ってさあ言え、と言われても、会話の中で学んだ言語ではないので、ワタシには無理である。

しかしこの講師も問題である。

ここのところ二三週間続けて授業にやって来ない若者が居るのだが、彼とワタシが恐らくこのクラスの最たる「落ちこぼれ」なので、なんだか寂しい。きっと彼もワタシと同様に居たたまれない思いで居るのだろうと、ワタシは勝手に想像する。

それはさもあらん。何しろこのクラスは「初心者用」でこれまで全く習った事が無い人でも良い、という事になっているのに、この講師が要求しているのは普通の日常会話が滞りなく出来る程度の能力なのだから、それに思うようについていかれないワタシたちのような「本物の初心者」は、まるでお馬鹿さん扱いである。


何故この単語を知らないのだ。

この動詞の変化をもう忘れてしまったのか。

一体何を言いたいのだ。


何度も言葉に詰まりながら、というよりそもそもその言葉自体を知らないのだから何度考えたって出て来る筈も無いのだが、悔しくて涙が零れ落ちそうになる。


今日はこの人々の為にとってもとってもゆっくりと進めるから、他の皆さんは一寸辛抱してくれよ。

ほら、彼女が分かっていないから、皆でもう一度。


数ヶ月前まであんなに楽しかった語学学習が、どうして今ではこのような忌まわしい拷問になってしまったのだろうと、呪わしく歯を食いしばる。

ちなみにこういう時、歯列矯正中で噛み合わせが悪いと、「食いしばる」という行為は大変難しい。



その昔、ワタシが今住んでいる国の現地語を初めて習い始めた頃、当時語学学校で教えていたある講師が言った。

講師と言っても、彼は特別のトレーニングを受けたとか資格を持っているとかいう訳ではなくて、単にその言語を話す国で生まれ育った一般人に過ぎないのだが、しかし彼は外国人に教えるようになって、自らそれに必要な精神を身に付けたと見える。


自分が外国人に教える時には、この人は自分の言葉を上手に喋れないが、しかしだからと言って必ずしも「馬鹿者」ではないのだという事を、常に自分に言い聞かせなくてはならない。相手は立派な大人なのだから、その人なりの経験を持っている。それを表現する手段のひとつが偶々自分のそれと異なるというだけで、その人の尊厳を辱めるような事があってはならない。


だからワタシは、言語なんてものは只の「道具」に過ぎない、と以前から考えている。こんなものはコミュニケーションの「道具」であり、また何かを調べたり勉強したりする為の「道具」でしかない。そんなにご大層なものではハナから無いのである。

ひとつ外国語が出来るからといってそれを大げさに喧伝したり、またはそれ自体で生計を成すのは、ワタシに取ってはある種身を落とした行為である。その言語自体が出来るという事は外国で長らく過ごしていたら半ば当たり前の能力なのだから、そうでない人と比べた言語能力を誇示するのは馬鹿げている。その言語が出来るという事はもう「標準装備」として、ではそれを基にして他に何が出来るのか、他にはどういう能力を持っているのか、といった事で勝負していかねばならない。

だから、その割りに翻訳の仕事を食い扶持の足しにしなければならないでいる我が身の現状を、ワタシは多少恥じている。本業でもっと身を立てていかれるようにしなければと、ここ数年焦りながら道を模索している状態である。



そうこうぼやいているうち、トランジスター・ラジオが壊れた。

夜の外国語講座を聞くのに入用なのだが。

またしても余計な出費が嵩むのか。またひとつ機種や値段を調べたりして、検討しなければならない懸案事項がひとつ増えるのか。

しかも直ぐ要るのだから、先延ばしにさせてくれない事項である。


何だか物事が上手く行かない。色々な物事がワタシに楽をさせてくれない。多くを望んでいるつもりは決して無いのだが、しかし思ったように事が進まない。

まるで半月に掛かった霞のように、ぼんやりとした頭で考える。何かが上手く機能していないのだ。それは一体何だ。何なのだ。



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