せらび
c'est la vie
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みぃ


2005年07月24日(日) 他人に対して簡単に匙を投げない努力

とうとう夏季語学集中講座の終了試験前日。

図書館にまで出掛けていく気力が無いので、自宅でぼちぼち自習中。でも暑いので、後程近所の茶店に避難しようかとも思案中。

そうこう言ってるうちに日が傾いてきたので、やはり出掛けるのは止す。根性無し。



昨日はヴォランティア活動に出掛けて、例の馬鹿たれの一件で、日頃親しくしている若い女性と話をする事が出来た。

掻い摘んで言うと、あの馬鹿の所業には常連ボランティアの皆さんは殆ど呆れ返っていて、今ではもうまともに相手になどせず、ただ放ったらかしにしているのだそうな。

それでも時折そんな心の広い皆さんを更に黙らせるような、極めて非常識な言動が見られる事がある。

しかしそれに一々文句を付けても、奴はその場は謝るかも知れないが、しかし「明日はまた新たな一日」と心得ているようで、次に会った時には皆過去の事は奇麗さっぱりと忘れて何事も無かったかのように付き合ってくれるもの、と信じているらしく、再び同様の非常識な言動を繰り返しているらしい。

これはガミガミ屋さんではないが、「経験から学ばない馬鹿」というものである。

「だから言うだけ無駄」と常連ヴォランティア嬢は言う。


世の中にはそういう、己に過大な自信を持って暮らしている輩というのが、意外といるものである。

そしてそれを良しとする「拾う神」もまたいるようで、お陰で周りの人間が嫌な思いをする羽目になって、大変迷惑である。


無闇に馬鹿を煽ってはならぬ。


しかし彼女との会話から、少なくとも彼らは何も集団でワタシを嫌いになる事に決定したというような理不尽な人々では無かった、という事が判明して、まあそもそも大人なんだから当たり前の話だが、嗚呼この人々はそれ程馬鹿ではなかったか、と安堵した。

でも、馬鹿と付き合っていると一緒の馬鹿だと思われるから、それはそれで考え物ではある。


という訳で、ワタシは今後もその施設にヴォランティア活動をしに出掛けるのを止さない事にする。もし行ってまたあの馬鹿たれに出くわしたら、此処数週間の例に習って、限りなく「無視」に近い「出来るだけ会話をしない」状態を心掛けておれば良い。


以上、馬鹿の話は一旦〆。




さて、大学時代の友人から、昨日無事に女児出産と知らせが届く。

彼女は二三年前に目出度く結婚したのだが、それまでの数年間は所謂「合コン」とかいうような集まりに熱心に参加していたそうで、どうやら随分焦っていたらしいとの事である。

その癖、以前仕事の都合でワタシの住む街を訪れた際には、然程結婚願望は強くないなどと抜かしやがった言ったので、後に他の友人らから聞き及んでがっかりしたものである。余程プライドが高いのだろうかと、少々気の毒にも思われた。

そんな彼女が結婚式を挙げる時、仲間たちはその事実をあるひとりの友人からの「又聞き」で知らされたので、まるで地割れがざざざっと地を轟くように、不信感がワタシたちを襲った。

聞けば「地味婚」とやらだそうで、全ての友人を招待する事は出来ないから、という理由で、式への招待は大学時代の仲間のうちひとりだけ。「その他大勢」は式どころか婚約や結婚のお知らせすらもすっかり省略されたという訳である。

ワタシはそもそも結婚する事すら知らない事になっているのだから、お祝いなど送る必要も無かろうなどとへそを曲げていたのだが、ある奇特な友人がせめて祝電でもと労を取ってくれたので、ワタシたちはそんな彼女の計らいで、連名にてお祝いの電報を送る事になった。


ちなみにそんな気を回してくれたのは、仲間内で当時唯一の既婚者&母であった。母は偉大なり。人間が小さいワタシなどには、到底真似出来無い。

また偶々一番年を喰っているワタシが、連名の筆頭に挙げられていたとか。こういうところは、非常に日本的。


そんな訳で、ワタシは結婚式後に祝電へのお礼メールを受け取る。

恐らくひとりだけ招待されていた「友人代表」が気を回して、「ワタシ」が怒っていたから連絡しとけ、とでも言ったのだろう。

こういうところもまた、日本的なり。

しかしワタシは、その祝電の手配をしたのは別の友人なので、お礼は彼女に言うようにと返し、お幸せにと括った。


そんな不義理な彼女だが、その後ワタシが近況報告などでメールを一斉に送ると、それを機に真っ先に返事をくれるのは、決まって彼女であったりする。

それは恐らく、彼女の希望で携帯電話にメールを送り付けている所為もあろう。それによって、多分彼女が一早くワタシのメールを読み、また一早く返事を出し得る状況にもあるのだろう。




ワタシは何を言わんとしているのだろうか。


つまり、これは「人は成長する」という教訓ではないかと思う。

人は間違いを犯すけれど、しかしその間違いを間違いと心得たら、次にはそれを繰り返さぬよう努力をする(しないのもいるが)。

もっと若い頃のワタシは、例えば誰かが不義理や不行き届きを働いたりするとそれを責め立て、だからアンタはとんでもない人間であると断じた。

しかし時折見かける人間の中には、そのワタシの言葉に相応の重みを感じ、己のやり様を改善しようと努力する者もある。

例の「腐れ縁オトコ」も、その一例ではある。

ワタシは彼のそんな可能性を疑ったりこんなボケ相手にしてたら時間の無駄だと簡単に諦めたり、またとんでもねえ社交性の無い馬鹿野郎だと匙を投げたりなどしてきた。

しかし、人は成長するし、その過程には時間が掛かる。

ワタシは焦ってそれを早めようとしたが、相手はワタシの思うような速度では変わっていかない代わりに、しかし着実に、変わってはいく。

ワタシは人々にもっと時間を与えなければならないのではないか。そう簡単に諦めてはならないのではないか。



恐らくワタシは、こうすればもっと効率が良いのにとか、こうすれば人に迷惑を掛けないでも済むのにとかいう様に、色々な面において色々なやり様を知っているのだろう。

恐らくそれはワタシが幼少時代に培った、波乱万丈な親子関係における「自己防衛」という苦労の賜物でもある。ワタシは彼らの都合に沿うように日々変わっていく事を厳しく要求され続け、また彼らのご機嫌を取る事を至上命題として、非常に窮屈な幼少時代を送ったのである。

だから、他人もそういう配慮が出来るもの、当然分かっているもの、と何処かで思い込んでいるところがあって、そうでない他人を見ると、ただ驚くのである。

つまり、自分が持っている能力の特殊性に長らく気付かないでいたものだから、それは最低限の、当たり前の、常識である筈なのに、何故回りの人間はこんな事すら出来ないのか、何故こんな事も分からないのか、と驚くのである。


競争の激しい業界にどっぷりと身を置いていると、尚更そんな傾向が強くなる。つまり、打ちのめされて自分に自信が無くなって来ると、まるで世の中全ての人間が自分より優れているかのような錯覚を起す。

そしてある時その業界を一寸離れてみると、他所で通用しているスタンダードが丸きり違う事に気付く。

自分も意外と捨てた物ではないと見直したり、または、あんな奴でさえ通用しているのだから、自分があの業界に行ったらもっとマシだろうと自信を持ったりする。逆に、どうしてこんな非常識な馬鹿たれでも通用しているのだと憤慨したりもする。


全ての事は、相対的である。

何を基準にするかによって、その価値は全く異なってくる。

ワタシはワタシ自身の中により大きな「世界」を創造しようではないか。そしてその中へ入って来た人々には、彼らに必要な時間を与え、彼らの成長をゆっくり見守ろうではないか。そしてその過程を眺めながら、ワタシに必要な学びを得て、ワタシ自身もじっくり成長して行こうではないか。

そういう「擬似ワールド」を雲の上から眺めるような心持ちで、自分と周囲の世界との間に、距離を置く。




ところで土星と太陽が最近獅子座に移ったのだが、早くもその威力を発揮してワタシに影響を与えているものと見える。

今のところ、こうした変化は大いに歓迎する。


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