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■ キリスト、イスラエルの王
今日の礼拝は、イエス様の十字架を覚える
「受難日礼拝」でした。
聖書はマルコ15章からです。
道行く人も
祭司長、律法学者も
イエス様の両脇に十字架につけられた強盗も
「十字架から降りて見ろ」
と嘲りました。
それは結局
「自分を救えない。お前は神ではないではないか。」
との罵りの言葉でした。
イエス様は、降りることはできますが、降りずに
私たちの受けるはずだった神の罰を負って
くださいました。
今日は新しい気づきがありました。
この十字架の一部始終をそばで見ていたローマの
百人隊長が救われたということです。
これは救いは異邦人にも及ぶということで、
それが今実現して、ここ日本にも福音が届きました。
今は「異邦人の時」
それと、
祭司長、律法学者の罵りのことばの中にも
彼らが知らないで言った、神様の真理があるのに
気づきました。
それは「キリスト、イスラエルの王」です。
今は、「他人は救ったたが、自分は救えない。
キリスト、イスラエルの王さま。たった今十字架から
降りてもらおうか。われわれは、それを見たら
信じるから。」との嘲りのことばです。
けれど、聖書には約束があります。
その罵ったユダヤ人、イスラエルをも
世の終わりの時にお救いになるこの方は、本当に
「キリスト、イスラエルの王」だということを。
エゼキエル34章「失われた羊を捜し出す牧者」
ゼカリヤ12章
「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、
恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちの
つき刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って
嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って
激しく泣くように、その者のために激しく泣く。」
ローマ11章「イスラエル人の一部がかたくなになった
のは異邦人の完成のある時までであり、こうして
イスラエルはみな救わる、ということです。」
2024年03月24日(日)
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