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■ ヨブ記1〜4章
聖書通読はヨブ記に入りました。 1〜4章まで読みました。
改めて気づいたのは、ヨブはそうとうのお金持ちで 「羊7千頭、らくだ3千頭、牛5百くびき、 雌ろば5百頭、それに多くのしもべを持っていた。」 (1:3)ということです。 「それでこの人は東の人々の中で、一番の富豪で あった。」(1:3)とわざわざ記されていました。
子どもたちにも恵まれて、7人の息子と、3人の娘が ありました。 家族関係も良好で、互いに行き来し、それぞれの家で 飲み食いをしていました。
ヨブは神様を信じ「この人は潔白で正しく、神を恐れ、 悪から遠ざかっていた。」(1:1)とあり、 自分のことだけでなく、子どもたちの信仰のためにも 祈る人で、「祝宴の日が一巡すると、ヨブは彼らを 呼びよせ、聖別することにしていた。彼は翌朝早く、 彼らひとりひとりのために、それぞれの全焼のいけにえ をささげ」るほどの念の入れようでした。(1:5) それは、「私の息子たちが、あるいは罪を犯し、 心の中で神をのろったかもしれない。」と思ったから である。(1:5)というほど、神の前に歩んでいた人 でした。
そして、1章後半で「天上の場面」があり、 ヨブの知りえない、神様とサタンの会話が出て来ます。
神様はサタンに言っています。 「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。 彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかって いる者はひとりも地上にはいないのだが。」(1:8)
けれど、サタンは、それは、『ご利益宗教』だからだ。 と言っています。 「あなたが彼と、その家とそのすべての持ちものとの 回りに、垣をめぐらせたではありませんか。あなたが 彼の手のわざを祝福されたので、彼の家畜は地に増え 広がっています。 しかし、あなたの手を伸べ、彼のすべての持ち物を 打ってください。彼はきっとあなたに向かってのろうに 違いありません。」(1:10,11)
ここで気づくのは、サタンは神様の足元にあるという ことです。自分だけでは動けません。 では、神様と組んでいるのかというとそうではありません。 サタンにはサタンの意図があり、「ヨブの信仰を潰す」 目的がありました。 しかし、神様には神様のお考えがあり、その策略さえも 道具としてご栄光を現そうとされているのです。
そして、次々とヨブに苦しみが襲い、家畜もしもべも 失い、ついには息子娘すべてを失うこととなりました。
しかし、サタンの意図とは違って ヨブは何もかもを失っても、尚神を礼拝し 「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で 私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。 主の御名はほむべきかな。」 (1:21)と神をたたえました。
2章で再び「天上の場面」があり、神様は、サタンに こう言っています。
「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼の ように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている 者はひとりも地上にはいない。彼はなお、自分の誠実を 堅く保っている。おまえは私をそそのかして、何の理由 もないのに、彼を滅ぼそうとしたが。」(2:3)
ヨブはこの場面を知りません。 地上では、略奪、剣、災害が自分の家を襲い、家畜、 しもべ、そして我が子たちすべてを失いました。 その中にあっても、苦しみの理由が分からなくとも、 ヨブは「主は与え、主は取られる」と神様は神様である ことを信じ続けました。 そして、神様はそのヨブをこのように見ておられたのです。
さて、サタンはさらにこう言います。 「・・・しかし、今あなたの手を伸べ、彼の骨と肉とを 打ってください。彼はきっとあなたをのろうに 違いありません。」(2:5) と、これまでは彼の回りのことだったからであって、 彼自身を打って、病気にすれば、きっと神を信じること をやめ、神をのろうにちがいない。と言うのです。
そして、ヨブは足の裏から頭のてっぺんまで、 全身おできだらけの悪性腫物でおおわれました。 土器のかけらで身をかき、灰の中にすわるほどでした。
彼の妻はついに言いました。「それでもなお、あなたは 自分の誠実を堅く保つのですか。神をのろって 死になさい。」(2:9)と勧めます。
「しかし、彼は彼女に言った。 「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。 私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいも受け なければならないではないか。」ヨブはこのように なっても、罪を犯すようなことは口にしなかった。」 (2:10) とあります。
3章では、あまりの苦しみに自分の生まれた日をのろい ますが、神をのろっているのではありません。
3:25に「私の最もおそれたものが、私を襲い」と ありますが、それが「災害」のことではないのは、 1,2章で見たとおりです。
そして、3人の友たちがヨブの災難を見て、入れ替わり 立ち代わり、ヨブを慰めに来ますが、そのことばは どれも「天上の場面」で見ている神様のお考えからは、 完全にずれてしまっています。
今日読んだ4章では、まずエリファズが話しています。
彼はヨブに言いました。 「見よ。あなたは多くの人を訓戒し、弱った手を 力づけた。あなたのことばはつまずく者を起こし、 くずれおれるひざをしっかり立たせた。 だが、今これがあなたにふりかかると、あなたはこれに 耐えられない。これがあなたを打つと、あなたは おびえている。 あなたが、神を恐れていることは、あなたの確信では ないか。あなたの望みはあなたの潔白な行いではないか。 さぁ、思い出せ。だれが罪がないのに 滅びた者があるか。 どこに正しい人で絶たれた者があるか・・・。」 (4:3〜7) とあるとおり、 友の苦しみを見て、慰めに来たはずですが、 結局ヨブの罪を指摘することになってしまっています。
ヨブはこのたびのことで罪を犯してはいません。
「天上の場面」を私たちは聖書に見ているので、 そのことが分かっています。 神様はヨブの不信仰を罰するために、苦しみを送った のではありません。 むしろ、ヨブの信仰を誇りに思っている神様が あるのです。
クリスチャンと言っている人の中にも「繁栄神学」 という誤った考えを持った人があります。 この先3人の友が、延々ヨブと問答しますが、 みなヨブが苦しみの中にあるのは、罪を犯したからだ。 と言っています。 逆に、神様に従っていれば、病気にもならないし、 お金も増えるし、子どもにも恵まれ、祝されるという 考えです。
「主は与え、主は取られる」
地上では、意味が分からないようなときにも、 「神様の主権」と、神様のなさることを、 神様であるから、と信じたヨブの姿を見ていきたい です。
とても長くなりました!
昨日はここは冬のような寒さでしたが、今日はいい天気です。 これから満開の桜を見に行きたいです。 皆様のところでは桜の様子はいかがでしょうか。
今日の一日も主の御手の中にあることを感謝します。
2023年03月29日(水)
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