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■ 十字架から降りて、自分を救え
今日の礼拝はマルコ15:16〜32の
十字架の場面でした。
まずは、ピラトのところでむち打たれるところから
始まります。
兵士たちはイエスをからかって、王様に見立てて
紫の衣と、いばらの冠を頭に被せます。
「ユダヤ人の王様ばんざい!」と叫び、あいさつし、
頭を葦の棒でペンペンと叩いて馬鹿にします。
顔につばきを吐きかけて、
ひざまずいて拝んで見せたりします。
十字架に手足をくぎで打たれはりつけにされてからも
人々の嘲笑を受けました。
「おお、神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。
十字架から降りて、自分を救ってみろ!」
頭を振って、と書いてあるのは、ユダヤ人の馬鹿にするときの
しぐさだそう。
祭司長律法学者たちもイエスを嘲っていいます。
「他人は救ったが、自分は救えない。
キリスト、イスラエルの王さま。たった今、十字架から
降りてもらおうか。われわれはそれを見たら信じるから。」
イエスと一緒に十字架につけられた強盗どももいっしょになって
イエスをののしった。
とあります。
たくさんの嘲りがあって、お前は王なんだろ?神なんだろ?
キリストなんだろ?
だったら十字架から降りて自分を救ってみろ。と言います。
でも十字架から降りない。イエスは自分を救わないのです。
それはどうしてでしょうか。
今日の個所の中に、少なくとも二人の人がイエス様を信じていきます。
それはイエスの十字架を負わされたクレネ人シモンと
イエスとともに十字架につけられた片方の強盗です。
初めはそうではなかった。群衆や兵士や祭司長律法学者たちと同じように、
イエスを嘘つき野郎としてののしっていました。
シモンも、いなかから出て来て、たまたまそばを通りがかっただけなのに、
とんだ災難に巻き込まれたわけです。
何でこいつのせいでこんな目に遭わなければならないんだ、と
思ったのではないでしょうか。
でも、シモンは後に信者になったと言われています。
この書を書いた弟子のマルコが、ここでただ「通りかかった人」と書かずに、
彼の子どもの名「アレキサンデルとルポスの父であるシモン」と紹介しています。
強盗の入信のことは、ルカの福音書23章を開けば、
その出来事が記されています。
初めは嘲ったり、ののしったり、迷惑だと思ったりした人のことを
二人はどうして信じたのでしょう。
どうしてまことのキリストであるのが分かったのでしょう。
一番そばで、一番間近でイエス様を見ていて、
分かったんでしょうね。
この春の時期になると、この個所を毎年のように読みますが
いつも、父と病室でこの話をしたことを思い出します。
「ねぇ、どうしてなんだろう?なんで変わったと思う?」
そして、きっといつも聖書の話が聞こえていたであろう
お隣の方のことを思い出します。
この方も「いつくしみ深き」のイエス様に涙されました。
2023年03月26日(日)
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