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■ 食べて祝おうではないか!

昨日の日記でも、
聖書のたとえ「放蕩息子の父」の話に触れましたが、
今また考えていることがあります。
この前知っている人のネットラジオを聞きました。
その方がイエス様を信じた時のお証でした。
信じたと告白すると、
一緒に話を聞いてくれていた人が、立ち上がって
「皆さん今日○○が信じました!ハレルヤ!」
と大きな声で言ったので
とても恥ずかしかったけど、嬉しかった。
というものでした。
そこから、
「ひとりの人が信じると天で御使いたちが大喜びして
パーティーが開かれる。
神様は僕たちをそれほどに喜んでくださる。」
と話されていました。
それで思い出したわけではないんだけど
読みかけで止まっていたヘンリ・ナウエンの
「放蕩息子の帰郷」をまた読み始めました。
8章の「父は家に歓迎してくださる」のところで
いくつか心に留まる文章がありましたので
ご紹介します。
「いまわたしに分かり始めていることは、 神が身を隠し、できるだけわたしから見つかりにくい ようにしているのではなく、 むしろ隠れているわたしをこそ捜し求めておられると 考えるなら、わたしの霊的旅路のあり方が、いかに 根本から変えられるだろうか、ということだ。 わたしが神の目を通して、失われた自分というものを 見つめ、わたしの帰宅によって、いかに神が喜んで くださるかに気づけば、わたしの人生の苦悩はより 少なくなり、より信頼に足るものとなるだろう。」
「このような問いは、現実的な課題を引き起こす。 つまり、自分で自分をどう考えるかだ。 わたしには捜してもらうほどの価値があることを、 自分で受け入れられるだろうか? 神のうちに、ただわたしと一緒にいたいという渇望が あることを、わたしは信じるだろうか? ここにこそ、わたしの霊的葛藤の中心がある。 すなわち、自己拒否、自己蔑視、自己嫌悪との軋轢で ある。そこでは、この世と悪魔たちが共謀して、 わたしには価値がなく、役立たずで、取るに足りない 存在だと思い込ませようとするので、極めて厳しい 闘いを強いられる。」
自分もいつのまにか、この世の物差しや
単なる人の気まぐれな言葉に翻弄されて
自分は無価値であると信じ込みやすい。
実は神様は私のことを
こんなにも大喜びしておられるということ。
姿が見えなくなると
居ても立ってもいられないほどになって
心引き裂かれる思いでおられること。
失われたひとりを見つけ出したら
飛び上がって喜んで
天にも喜びがわき起こること。
食べて祝おう!とおっしゃって
大祝宴が開かれていること。
そういう自分の見方か〜
と思って
2021年08月23日(月)
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