副題は「鶴我裕子のN響日記」という。N響のバイオリニスト鶴我裕子さんのエッセイ集である。 私は数年来、鶴我さんの書くもののファンであった。だから、この本も褒めたい。帯に<「鶴我サンに本を書かせる会」元会長 壇ふみ>とあるのを見たとき、そうだよねえ、私も書いてもらいたかった、と\1800も出して即買ったのである。鶴我さんの書くものは、雑誌やCD紹介本などで見る限り、光っていた。(ただし『音楽現代』の連載・・・この本のベースになった・・・は読んでいない。) とにかく褒めたい・・・でも褒められない・・・悲しい。 あるときN響の公演で双眼鏡片手に鶴我さんの姿を探した。なんとなく不機嫌そうなオバサンである。ソリストがお粗末だったりすると、やれやれってな感じで、退場を見送っている。音も聞きたいが、リサイタルなどなさらないようだし、私の耳では、第1バイオリンの何プルの右の・・・なんていう聞き取りは到底叶わないので、このことは未だに残念。一度、鶴我さんの音を聞いて見たい、とまあ、そう思うくらい、彼女の文章に入れ込んだファンだった。 さて、「掃き溜めの鶴」という言葉がある。無味乾燥な文が並ぶ中で、鶴我さんの文は一味違った。短いなりに人となりが感じられる文だったし、読者に媚を売らない文だった。決して権威を盾にしたり、やたら知識をひけらかす文ではなかった。ところが、鶴も集まってしまうと、なかなか加山又造の屏風のような美しさを出すのは難しい。早い話がたくさん一度に読むと飽きるのだ。落としどころがワンパターン。これ決定的に素人くさい。(まったく私もその通りです、はい。天に唾してます。) 単行本化することで、毒舌が鈍った気味もある。スヴェトラーノフとかサバリッシュとか、もっと古い人については言及もあるのだけれど、デュトワだの岩城宏之だのってところには寡黙である。心配りがわかってしまってつまらない。もちろん内輪話ばかりで書く人もサイテーだと思うけど、デュトワのことはもっと何とかいってもらいたいね。どーせ日本語読めないしぃ。 エッセイ集というのは難しいものです。掃き溜めの中で光るからって、そればかり集めて光が増すわけではないことを実感した一冊。
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