金土と悲しみに一時停止をかけて、所用で出かけたものだから、今日はなかなか厳しい日となった。 ― 頭ではわかっていても、体がわかっていないのである。 朝目が覚めてきたところで、耳が犬の寝息を求める。 起きてリビングのドアを開ければ、目は犬を探す。 外へ出て戻れば、玄関で犬に声をかけそうになr。 万事、そんな調子で、その都度、目がうるうるする。 気持ちが疲れて仕方がない。 書き直しをしないといけない原稿に手がつかない。 昼寝をしたら、夢にチアノーゼの舌がぱっと出た。起きるしかない。 思いついて、骨壷の置き場所を変えて、見えやすいところに置いた。 そうすれば体が空振りをしにくい。 老犬がもういないことがいつもわかる。 人はそれに霊的な説明を与えるだろう。 「傍にいたいのよ」と。 そうかもしれない。そうでないかもしれない。 老犬は物理的距離に係わらず、いつも心の中にいる。 当分、水のみ場には水を置いてやることにした。 そのうち頭のいうことを体も習得するだろう。 その目安が四十九日なのかなあ、と思う。 動物霊園のお寺は人並みにそういう展開をしてくれる。 生き続ける者が死を受け入れるための完成したメソッドなんだろう。 私も一応それを目安にする。 四十日でも六十日でもいいのだが、そんなことに悶着するのは面倒。 商業主義に翻弄されていると笑わば笑え。
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