Mako Hakkinenn's Voice
by Mako Hakkinenn



 世界登山史上最大のミステリー
2005年08月17日(水)

 昨日は日本を代表する冒険家・植村直己の話題を書いたので、そのついでに世界登山史上最大のミステリーをご紹介しましょう。

 世界最高峰エベレスト山脈の山頂に世界で初めて立ったのは、公式には1953年に第十次英国隊に参加してネパール側の東南稜から挑んだ、エドモンド・ヒラリー(ニュージーランド)と、シェルパのテンジン・ノルゲイ(ネパール)であるとされています。
 ところが、ヒラリーとノルゲイがエベレスト登頂に成功する29年前の1924年、1人のイギリス人登山家がエベレストに挑みました。彼の名はジョージ・マロリー。彼は「なぜ登るのか」と問われ、「そこに山があるからだ」の名文句を残した人物です。

 世界最高峰エベレストへの人類の挑戦は、英国山岳会が1920年に第一次遠征隊を派遣した時に始まりますが、マロリーも第一次からの隊員でした。そしてマロリーは37歳の1924年6月8日の朝、第三次遠征で同僚アーヴィンと2人で最終キャンプを出発し頂上に向かいます。しかし、午後1時前、数百メートル下から目撃されたのを最後にマロニーとアーヴィンは消息を絶ち、帰らぬ人となってしまいました。

 その後、マロリーとアーヴィンは頂上に達していたのか、それとも途中で力尽きたのか、大きな議論を呼ぶことになりました。
 2人を最後に目撃したオデルは「おそらく頂上に立ったと思う。しかし、下降中になにかまずいことがあって帰ってこられなかったのだ。」と語っていますが、「時間から考えて登頂以前にスリップした可能性の方が強いのではないか」との意見もあり、その後世界登山史上最大のミステリーとして語り継がれるようになりました。

 公式に人類初のエベレスト登頂者とされているのは先に述べたように、マロニー遭難から29年後の1953年に登頂したヒラリーとノルゲイですが、マロリーらが登頂後に消息を絶った可能性があることは、長く語られてきました。つまり、もしマロリーらがエベレスト登頂成功後に消息を絶っていたとしたら、人類初のエベレスト登頂者は1924年のマロニーとアーヴィンということになり、登山史が書き換えられることになるわけです。

 さて、この長く語り継がれてきたミステリー、1999年に大きな進展を迎えることになりました。何とアメリカのマロリー&アーヴィン捜索隊により、標高8230m付近でマロリーの遺体が、実に75年振りに発見されたのです。頂上の下約620mの地点でした。

 捜索隊によると、氷点下の気温と乾燥した空気のため、遺体の保存状態は極めて良好で、うつぶせで両手を広げた格好だったそうです。鋲底の登山靴を片足に残していましたが、衣服はほとんど剥ぎ取られ、露出した肌は太陽光線にさらされ、ギリシャかローマの大理石彫像のように白かったのだとか。服に縫い込まれていた名前と、妻など家族からの手紙が胸のポケットに納まっていたことからマロリー本人と確認されました。マロリーの腰には白色化したロープが巻き付いたままでした。先に1933年の第四次英国隊がアーヴィンのピッケルを発見した標高8320m付近の尾根から、アーヴィンとともに滑落したとみられています。

 では、マロリーは果たして登頂に成功していたのでしょうか。マロリー&アーヴィン捜索隊は、2人が頂上まで登った可能性を確かめるために、マロリーたちの時代と同じ条件で登り、どのくらい時間がかかるものか検証を行いました。その結果、実際に検証を行ったクライマーの個人的意見ではありますが、時間的に考えて、マロリーたちが登頂できた可能性は極めて少ないという見解に至ったのでした。今はまだ結論は出ていませんが、少なくとも状況は、オデルの登頂説よりは、時間的に無理だとする失敗説に近いものでした。

 しかし、まだマロリーとアーヴィンの謎は解明されたわけではありません。遺体発見の際にマロリーの服のポケットからゴーグルが見つかっており、日差しよけのゴーグルを外していることから、遭難時には日没を迎えていたと推定され、最後に目撃された地点からなら、時間的にも登頂して引き返してきた可能性が十分にあり得るからです。そしてこの謎を解明する鍵が、もう一つ残されています。

 実はマロリーらは、コダック社製のカメラを持参していたのです。これが発見され、フィルムが未感光で残っていれば、登頂に成功していれば記念写真を撮っていたはずですから、謎はすべて解けることになります。捜索隊は今もなおアーヴィンの遺体とともに、カメラ発見に全力を挙げています。



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