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■ 佐藤琢磨の評価
2004年04月21日(水)
F1佐藤琢磨のドライバーとしての評価について、Barで激しい議論が続いていますが、その議論は平行線をたどったまま妥協点を見いだせません。F1の見方は人それぞれで、レース自体を楽しみたい人もいれば自分の応援するドライバーの活躍を見たい人もいる。F1チームを応援している人もいればドライバー個人を応援している人もいる。長くF1を見ている人もいれば最近になって見始めた人もいる。
「F1を見る」というスタンスが人それそれ違う以上、考え方や捉え方も人それぞれなのは当たり前。だったら、お互いがお互いの意見を出し合って、お互いが言うことを理解していけばいいだけのことじゃないか!何も自分の意見を曲げろとは言わない。しかし、自分とは別の意見や考え方もあるということを知ることで、また違った見方ができるはずなんじゃないか?そうすることによって、よりF1の奥深い一面を知ることができるんじゃないか?議論とは本来、そういうものなんじゃないのか?
以前にも似たような経験があった。僕が某掲示板である人の意見に対して反対意見を述べたことがある。「ミハエル・シューマッハが勝つために、チームメイトのルーベンス・バリチェロが順位を譲るのは当然」という意見に反論したとうものだ。ただそれだけのことなのに、なぜかミハエル・シューマッハを批判していると捉えられてしまい、僕1人だけが悪者扱いされてしまった。僕は今でも胸を張って言える。僕は間違ったことは言っていない。それなのに、議論の余地もなく僕は悪者にされ、挙げ句の果てに僕の人間性まで疑われてしまった。
今回も1人の人が琢磨に対しての固執した意見を押し通して、それを周りの人が反対する形となり、最終的にその1人の人だけが悪者になってしまうと言う結果を招いてしまった。僕は管理人として、もう少し両者をいい方向に持っていく方法があったのではないかと、今更ながら後悔している。 見るスタンスや考え方、捉え方は違えど、同じF1というスポーツを愛する仲間同士じゃないか!誰の言うことが正しくて誰の言うことが間違っているということは全くないじゃないか!
そもそも、僕のF1レポートや各所でのF1に関する意見は、そんなに批判的なのだろうか?僕は至って平等に、分け隔てなく俯瞰的に私見を述べているつもりだ。応援しているドライバーでも悪い点は指摘するし、そうでないドライバーでも目を見張るものがあればそれを評価している。ちゃんと読んでもらえば、決して悪い部分だけを指摘して良い部分を見ていないなんてことはないのは一目瞭然だ。しかし、中には「Makoさんのレポートは厳しすぎるから読めない」という人もいる。
じゃあ何か?公式サイトのように、ただレースの過程だけを淡々と書き連ねろとでもいうのか?読む人の顔色をうかがって、読む人が喜びそうなことだけを書けというのか?批判的な部分は一切書かずにいい部分だけを書けというのか?そんなの、うちのF1レポートじゃない。僕の書くレポートが必ずしも正しいとは言わない。そんな横柄なことを言っているのではない。ただ、僕はあくまでも偏ったことは書いていないということ、そして、僕のような意見もあるということを、理解してもらいたい。そしてその上で、私はそうは思わない、と反論してくれればいい。
うちで激しく議論を繰り広げてくれるのは一向に構わない。仮にそれで一時的に掲示板の雰囲気が険悪なムードになったとしても、最終的にお互いが納得し、充実した機会が持てるならそれでいい。僕は必ずしもBarに和気藹々としたムードだけを求めているわけではない。時には激しい論議が繰り広げられてもいいと思っている。しかし、議論する上で最低限のルールというものがある。自分の意見を明確に述べること、人の意見を理解すること、そして反芻することだ。また、議論を終えた後にわだかまりを持ってはならない。わだかまりができるくらいなら、最初から議論なんかするなということだ。
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