| 2006年06月25日(日) |
【NSP FILM TOUR 2006 as...めぐり逢いはすべてを超えて】 名古屋東建ホール・丸の内 |
2006年6月24日午後3時から名古屋東建ホールでのNSPフィルム・ツアー。 ロビーにたくさんの記念品が飾られている。 パネル、ポスター、使っていたパソコン、ギター、衣装、靴など所狭しと本当にたくさん。写真は会場内は禁止だけど、ロビーはどれだけとってもよいとのことで、ファンとしてはうれしかった。 みな、大型パネルの横に並んだりして写真を撮っていた。
3時10分頃に始まった。 あたりまえだけど、平賀君と中村君が二人で登場。 やっぱり天野君はいないということにあらためて衝撃を受けてしまった。 平賀君が「きょうはこんなに暑い中、こんな暗いイベントに集まっていただいてありがとうございました。」と言って二人で笑い、お客さんも笑った。 きょうのこのイベントは内容が内容だけに、東京と一関だけにしようと思っていたけど、あちこちのイベンターさんから声がかかり、全国ツアーになったこと。 今回のフィルムはコンサートというより、いろんな人からいろんな話を聞いて作り、自分達も知らなかった意外な天野君の人柄がわかったこと。 そして、映画なので始まる前のCMも作ろうということになり、CMも作ってみたけど不評だということ。 などを話して始まった。
最初に去年秋の追悼イベントの1シーンがあり、 平賀君と中村君が「きょうはNSP最後の演奏です。天野はこの歌を歌ってみんなとお別れがしたいと言っていました。聞いてください。」と言って、天野君のビデオを流しながら「さようなら」を演奏した。 モニターでは天野君がおそらく生前最後の力をふりしぼっての演奏をしている。その下で平賀君と中村君が寄り添うようにギターとベースを弾く。 よく泣かずに演奏できるなと思った。やっぱりプロは違う。 歌っているシーンはここだけだった。
その後、天野君といっしょに仕事をした人たちがかわるがわる登場して、どんな仕事をしてどんなことを語ったか、どこへ行ったか、どんな人だったかをそれぞれに話していた。 ヤマハの昔のえらいさんとか出てきて、私も知っている人もいてびっくりした。 しかし、いろんな人が登場するたびにその登場人物の紹介のテロップが下に出て、それを読むのと、その人の話を聞くのを同時にやらなければいけないので、私などはしっかりと字の方を読んでしまい、何をしゃべっているのかわからなくなったりした。 昔好きだった実川俊晴、あべとしろう、細坪基佳、高橋研、チャ−、あと岩手のDJの人やヤマハの偉いサンや初代マネージャーなどが登場した。
高橋研は意外だった。 彼はNSPより後に中村あゆみさんやアルフィーがブレイクした頃にすごい活躍をした人なので、ちょっと世代が違うなと思ったけど、NSPのラスト・オリジナル・アルバムに参加していたのだ。 NSPの次の世代なので、彼ただ一人だけ敬語でしゃべっていた。 みなそれぞれに仕事をしていく中で、ある日突然病気のことを聞かされ、ただ驚いたらしい。 中でもチャ−は仕事の上で一番親交が深かったようで、なんとかブルーな気持ちを元気にさせたかったようだった。 天野君のギターは、この秋からチャ−が譲り受けて弾くそうだ。 それはなによりの供養だろう。 あべとしろうは久しぶりにその姿を見ることができた。 その昔、「くもと空」というグループをやっていたが、全く売れず、 その後、ソロになっても売れず、すごい才能があってコミック的な歌も歌えるすばらしいアーティストだったが、消えていった。 最近、沖縄で宗教活動と歌手活動をやっていることを知って驚いた。 しかし、彼が天野君と知り合いだったとは私は知らなかった。 あべさん、ただ一人だけ天野君のことを厳しく批判していた。 かなりけんかもしたと言う。 そして、もしかしたらこいつは病気かな?とも思ったそうだ。 最後はわかりあえないままになったようだが、それが少し心残りのようだった。
あと驚いたことに天野君は甘党で、フォークの人たちで作る甘党の会に入っていて、よくみんなで甘いものを食べに行っていたという話があり驚いた。 その話は実川俊晴さんがしていたけど、だいたい実川さん自体こんな画面に現れるなんてびっくり仰天だった。
あと、故郷一関のあちこちの風景や学校も訪問していた。学校では野球部の生徒がすごく気合を入れていた。平賀君が声をかけると一人の生徒が「今から俺の気合を見てください。」と言って何か叫んでいた。平賀君と中村君はものすごく驚いていた。平賀君が住んでいた下宿や「夕暮れ時はさびしそう」が生まれた川原も訪れた。
その間、病気と闘っている天野君も登場し「ガンが小さくなっていないので、来週からまた治療に入ります。でも、先生はこれだとあと2年くらい生きられると言ってくれました。先生が2年と言うのなら僕は3年生きることを目標にがんばります。」と言っていた。
2年前の名古屋のコンサートで天野君は「あとどれだけ長く生きるかよりも、どうやって生きるかが大切なんです。」と言っていた。 それがまさかこういう意味だとはそのときはみじんも気づかなかった私。
最後に未発表のデモテープが流れた。歌詞はまだできていなかったのか 英語で歌っているようだ。声はまぎれもなく天野君だ。 そして、エンドロール。 今までゆかりのあったミュージシャンの名前がずらりと並んでいる。 懐かしい金子裕則や芝田洋一の名前もあった。
ミュージシャンの名前の後はファンクラブ会員の名前も流れた。 私の名前も流れて胸が熱くなった。 ファンクラブ会員のお客さんが多いのか、みんな身を乗り出して自分の名前を探していたようだった。
それで終わった。
一番印象的だったのは初代マネージャーさんの話で「歌は世につれ」を作ったきっかけの話だった。 それはたまたま見た大学の文集からヒントを得たそうだった。 あの歌を天野君はコンサートでいつも歌うのに、いつも二番からは涙で歌えなかった。 私が最後に見たコンサートでも2番から泣いていた。 サラリーマンの人たちは足並みをそろえすぎて、流れていくけど、僕はギターを持ってどんなに辛くても死にたいほど苦しくても、僕はギターを持って一生ギターを弾いて生きていくんだという決意のこもった歌だった。 なんでいつも2番で泣いていたんだろう。 私の一番の心残りは天野君が最後まで泣かずに歌いきる「歌は世につれ」を聞きたかったということだ。 辛くとも苦しくとも最後までギターとともに生きた自分自身がうれしかったのだろうか。やり遂げたことに胸がいっぱいになったのだろうか。 もうわからない。
フィルムが終わって平賀君と中村君は「みなさんが一生懸命見てくださって感激です。また、何かの機会にイベントをやりたいです。最後に流れたデモテープはどうするか決まっていません。デモだからデモのままでもいいかなとも思います。」と言い、「あべとしろうさんは勝手なこと言ってましたね〜(笑)。でも、本当に僕も天野は嫌なことばかり言って嫌な奴だなと思ったこともあったけど、その裏ではものすごくがんばっていたんですよね。いかに僕らが役に立っていなかったかが後でよくわかりましたよ。」と最後の最後まで優しかった。 きっと、普通の人にはわからない絆があるはずだ。 家族なんかとは違う深さと違う強さの絆。 「二年前の名古屋のコンサートで天野君はどれくらい長く生きるかよりもどうやって生きるかです。といっていたけど、僕らにとってはどれくらい長く生きるかが大事です(笑)。みなさんも生きていればいいことがあるかもしれないので、がんばって長生きしてください。」
平賀君と中村君もずっとずっと長生きしてください。 平賀君は奥さんをガンで亡くし、その涙の乾かないうちにこんどはリーダーの天野君をガンで亡くし、それでもNSPを続けていく。 もうNSPとして歌うことはなくとも活動を続けるなんてのは並大抵の人間じゃあできない。試行錯誤の日々だろう。 今年、川崎の方にお墓を建立するそうなので、私もぜひともお墓参りに行こうと思う。
私にとって天野君とNSPはただの好きなミュージシャンじゃあなかった。 天野君を知らなかったら私はポプコンに応募なんてしなかったし、 曲を作ったり歌ったりもしなかった。 ただ、音楽が好きで青春時代をすごし、熱が冷めたらきっと忘れていったはずだ。 天野君の声と顔と曲と詩にぞっこんになり、自分も曲を作りたいとコードを覚えたりした。 他にも好きなアーティストはいっぱいいたけど、まねして自分も作ってみようなんて思ったのはNSPのファンになったせいだ。 天野君、ありがとう。
なんであんなに好きだったんだろう。
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