遠雷

bluelotus【MAIL

偉くなんてない
2008年09月11日(木)

なんだかまたまた時間が経ってしまいました。
とりあえず、母親はなんとかなりました。
一応問題ある病ではありましたけど、痴呆でも卒中でもなかっただけまだマシかと思うことにしています。
様子を見つつ、という感じです。


なんとなく慌ただしいのをいい訳に、無為に毎日を過ごしているうちに夏が終わってしまいました。
そんな気持ちのゆるみでしょうか。知らずに苛立っていたのでしょうか。
又一人独身仲間が結婚(それも相談所に行って!)が決まったからでしょうか。
立て続けに(意図した訳でもないのに)大事な人や恋人を無くして苦しむ物語を読んでしまったからでしょうか。
若い子たちの無邪気な恋愛話をニコニコして聞きながら、心の中では苛々しながら「おめでたいな」などと見下しているのです。
今までも少しはそんな気分になることもあったと思いますが、”不幸なことでは負けない、私の方がもっと不幸だ”という自虐的な自己満足だったように思います。
ここ数日のわたしの心は、”不幸な体験をした私は偉い”みたいな気持ちに近くて、そんなことを心の中ではベラベラと見えない誰かに吹聴しているような自分に気がついてしまった、それが大層ショックでした。
大した違いはないかもしれないけれど、自分に向けての不幸自慢なのか他人に向けての不幸自慢なのかは、私にとっては大きなことなのです。


私は当時、「悲劇のヒロインにはなりたくない」、それをまず考えていました。
あのときは周りから見たら痛々しくてそうとしか取られない状態であったかもしれないけれど、少なくとも自分としては悲劇のヒロインぶらないように細心の注意を払っていたつもりでした。
それなのに、こんな今になって、このていたらく。
こんな時代には珍しくもないちょっとした悲劇にしかすぎないのに、世にも稀な悲劇のヒロイン気取りで”普通の人”に優越感を持つ。
なんて醜悪な。
”普通の人”が、どんな体験を経ているのかわからないなんて、自分が一番にわかっているはずなのにと、思っていたのに。

改めて考えてみれば、いつしか、いろいろなことの免罪符代わりにするようになってしまったのです。
実際それを免罪符として人に振りかざすなんてことはないのですが、自分の中で”わたしは仕方がないよね”としてしまうような、言い訳甘やかしのツールになりさがっているのです。
状況的にちょっとどうしても説明しなければならないことが数度あり(事故とか病気で恋人を失った程度のいい方ですが)、他人に話すことによって出来た”慣れ”が、その免罪符を自分の中で大きく育ててしまっているのではないかとも思います。
それが話した相手にも感じられてしまっていたら。

恥ずかしいです。
彼に対しても、あの当時の自分に対しても。



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