草原の満ち潮、豊穣の荒野
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66 金の瞳、春の夢 4 悲しみについて

〜erase me〜

ブルーはひとりになった部屋で何をするでもなくぼうっと座っていた。
窓から差し込んで来る街の街灯。
明日の新緑祭に合わせていつも以上に華やかな灯が誰もいない路地を照らす。
荷は既にまとめてある。
ずっと定着せずに流れて生きて来た。海を出る前も出てからも。
気にかけた女性もいないわけではなかったが、流れ歩く自分には誰も彼もが遠い。
どうせどこで野垂れて死ぬかもわからない身だ。
ルーが現れてから一時期待ち焦がれた死も隣り合わせている。
自分が愛した場所からは常に追い払われて来た。
多分母親がいらないと捨ててからそういう運命になっちまったんだろう。
かまうものか。どうでもいいことだ。


そんな事を考えながらブルーはぼんやり街を見ていた。
ルーが行ってしまった今、妙な薬を使おうがろくでなしと行動しようが問題ない。
明日は一日だけ束の間の夢を見るのだ。そしてまた旅に出る。
あの可愛らしい娘の晴れ姿を目に焼き付けてふさわしい場所へ行こう。
友達も家族もいらない。望んでもいつも見失う。
リラも小さい連中も薄汚れた街角も愛していたけれど
幸福な時間は瞬く間に何処かへ過ぎ去ってしまう。


あの黒髪の司祭のように生きれば定住も出来るんだろう。だがオレには無理だ。
そうしたくても頬の傷に気付く度思うのだ。ひとりでいい。
誰にも頼らず生きて行ける強さが欲しい、
少年の頃からそう願って見上げ続けている星がある。
弱ければ強いものに喰われる。
金のレグルスはそう語りかけているような気がしていた。
今は明るすぎる街灯の為に見えない。そんな時は街灯の明かりに紛れて歩けばいい。
明日はそんな日なのだ。
ルーがいったいなんの為にいるのかは知らない。
じじいの考える事は今もまだわからないままだ。


ひどい嘘にまみれたあの童話の夢は消えた。
あんなものを慰めにひとり酒に死んでいった老人の顔が脳裏をよぎる。
知らない方がいい。
地上には魔法の浜もなければ特別な椰子の木もありはしない。
女神も遠い昔のたわごとだ。
地上はただ海と同じ世界があるばかりで楽園なんかじゃない。
唯一の救いと言えば、育った街のように似た場所もあるかもしれない事だ。
デライラはそんな匂いがする。

それから...。

あの金色の目の娘は眩しすぎる。
心地よい眩しさではあるけれど違いすぎる。
だからつい望んでしまうんだろうか....






とりとめなく考えながら見ていた石畳に長い影が伸びる。
様々な光源。その影は伸びたり縮んだりしながら近づいて来る。
足音はない。


「また来やがったのか」

ブルーはうんざりした顔でカーテンをしめかけはっとした。

「開けて、どうか開けて下さい!」

どんどんと階下の店の扉を叩く音が響く。
甲高い女の声は何度も何度もエンドレスに開けてくれと繰り返していた。
尋常ではない声。
ブルーは声からその主を把握できる。
その声は明らかにおかしかった。
だが何がどうおかしいのかよくわからない。
好奇心も手伝って彼は下へ降りて行った。


「とっとと帰ってくれ!」

早めの就寝を準備していた店主が血相を変えて怒鳴っていた。
無理もない。
そこにいたのはぼろぼろにすりきれたドレスを着て
髪を振り乱した裸足の女が立っていた。
彼女は甲高い声で叫びながら、しきりに手に抱えた襤褸布の
包みを差し出しては店主に突き戻されている。


「なにごと...うわっ」

覗き込みかけたブルーが顔をしかめた。
店主は完全に口と鼻を抑えて匂いをかぐまいと必死だった。
尋常ではない形相で店主が叫ぶ。

「さっさと行かないと通報するぞ!」

悲鳴に近いわめき声でついに店主が椅子を振り上げた。

「ちょっと待った、
そんなもんで殴ったら死んじまう!」

見かねてブルーが女の腕を掴み、店の外に引き出した。
信じがたい腕力で抵抗する女をなんとか外の路地まで引きずり出し
その間中彼女は口汚く卑猥な言葉を浴びせ続けた。
汚れで黒くなった爪の足下にぱらぱらと得体のしれない虫が零れ落ちる。


「お、落ち着いてくれ、いいか?
あんた殴り殺されたくなきゃ行くんだ」

ブルーを振り切って、尚も店に突っ込もうとする女の視線は定まっていない。
それでも執拗に店の方へ抱えたボロ布の固まりを差し向け続ける。

「なんだこりゃ」

ブルーはその布の中身を明るい街灯の下ではっきり見て呻いた。
凄まじい異臭はここから出ている。
暴れ狂う女の腕の中の赤ん坊。いや、正確にはだった抜け殻。
臍の尾も残ったまま腐乱したそれは壮絶な姿でボロ布にくるまれ
抱かれていた。


「あんたの子か?」

女はブルーの言葉を聞いた瞬間、目標をブルーに切り替えた。

「この子にどうか祝福を!!」

「えっ....」

焦点の定まらない目で彼女はブルーを見つめ、しきりに赤ん坊を差し出し始めた。

「お願いです。この子はまだ生まれてから祝福を受けていません。
どうかこの子が健やかに育つように祈って下さい」

「....」

絶句するブルーに赤ん坊を押し付けた女は何度も何度もそう繰り返す。

「この子が幸せな一生を送れるように、悪魔や闇に奪われてしまわないように
どうか祝福を!祝福を、祝福を...」


ブルーは困惑しながら女と赤ん坊を見た。
女のドレスは出産用だったのか緩くウエストの太いそれ。
汚れに加えて着崩れた姿と乱れた髪は鬼気迫って見えた。
赤ん坊を包んだボロ布はかつて純白だったであろう代物。
腐敗した赤ん坊の大きさから見ておそらく死産したのだろう。
最初に感じた違和感はこれだったのか、と胸に押し付けられた赤ん坊を
ぎこちなく受け取った。


「ほんとうにほんとうに可愛い子でしょう?」

女が夢見るような仕草でブルーの前に跪いた。

「...あ、ああ。可愛い女の子ですね」

しどろもどろでにわか仕立ての『司祭』が合わせた。

「その子は男の子です。よくごらんになって」

「失礼、あんまり可愛いので女の子かと...」



ブルーはひとつため息をつくと腹を決めた。
祈ってやればいいのだ。
この母親はきっとずっとこうやって彷徨っては叫び続けたのだろう。
がりがりにやせた指先、異様に大きく見開かれた目。
ブルーはうじがたかった赤ん坊をどうしても突き返す事ができなかった。

祈ってやろう。この子が還るべき場所へたどり着くように。

彼はいくつか覚えているふさわしい祈りの言葉を唱え始めた。
鎮魂の言葉、慰めの祈祷、闇を退ける祈祷....
騒ぎを聞いた人間がちらほらとそれを見ている事に気付いてもいたが
どうにもならなかった。
冷ややかな視線の中で紡ぎ出される祈りの言葉は海のそれ。
静かに音もなく広がっては消える。

女は顔を輝かせて手を組むと祈りを聞いた。
彼女自身からもぼろぼろと異常な量の蜘蛛や黒い甲虫が這い降りてくる。
彼女は何度も感謝の言葉をブルーの足に抱擁と口づけと共に繰り返している。
腐乱した赤ん坊は声すらあげなかった。
いつしかブルーは祈祷をあげながら己が泣いている事に戸惑っていた。


何故だ。
オレには理解できない....


閃いた白刃、冷たく重い金貨、彼にとって母親で結びつくものは
ただただ悲しかった事だけだ。
こんな姿になってまで子供に執着する母親がいるのが信じられない。
ねじれた狂気の中で、この母親は子供を離そうともしない....

彼は完全に祈る事が出来なかった。
開かれた口は硬直し、言葉を見失うばかり。




「すみません...私には出来ません」

ブルーは狂女の前に跪いて彼女と赤ん坊を抱きしめた。
背後で誰かが叫ぶ声が聞こえる。
どこから現れたか痩せて貧そうな顔をした男が奴は悪魔だと喚いていた。
母子を抱いたブルーの背中に虫が移って這い回る。
覗きに近づいた野次馬がそれを見て吐いた。
親しかった店主でさえ他人の顔をして店中の鍵をかけた。


彼女はこの街のタブーだった。
狂気を持て余したまま、人は生きながら『幽霊』になる事がある。
そして街の『忌むもの』に触れた者は村八分になる。
特に今夜は新緑祭の前夜なのだ。
立ち上がったブルーは人々の視線からそれを悟った。
狂女は穏やかな微笑みを浮かべて『赤ん坊』をあやしている。
馴染んだ店先には自分の僅かな荷が置き去りになっていた。


「この男は悪魔だ!人間に近づいて悪い風を吹き込んで回っている!」

叫ぶ男の声。

「うちの使用人はこいつにそそのかされて闇に攫われちまったんだ!」

コーヒー屋台の少年。
この男は借金の肩に連れて来た少年に逃げられて頭に来ていた。
あることないことデタラメにでっち上げて喚き続け
ルーの奇跡を見た人間すら、眉を潜めて顔を見合わせてしまった。

無言の圧力。
ひとりの男以外誰も罵声を浴びせるわけでもなく、投石もない。
それでもこの空気をブルーは知っていた。



「...潮時だ」


ブルーは店先の荷を取ると一度だけ馴染みの店を見上げた。
窓の灯さえ消されている。
女は気が済んだのかどこかへ踊るような足取りで消えて行った。
数人の野次馬は『幽霊』のとばっちりはごめんだと慌てて逃げ出した。
ブルーも歩き出したが全く同じ扱いを受けた。
彼はもはや『同類』なのだ。
近くを歩けば忌み言葉を残して逃げて行く街人。

「....」

ブルーは夜明けまで泉で待つ事にした。
あそこなら街外れだし水の中なら誰にも見られなくてすむ。
祭りどころではないが、こんな深夜にひとり出て行くのは辛かった。
いつもより飾られた道行きに複雑な気持ちを抱いて泉へ歩く。
追う者はない。
ブルーにとってそんな事はどうでも良い事だった。
ただ楽しみであった『女神』の晴れ姿を残念に思いながら
もっと深い悲しみについて考え続けていた。
悪臭と移ったうじすら彼の悲しみを増幅させ、彼は水に沈み一言だけ口にした。


「かあさん....」




レグルスは街が明るすぎて見えなかった。




Long Long Ago....
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