草原の満ち潮、豊穣の荒野
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61 謎〜The Riddle

深い海の底。

青く長い髪を梳きながら人魚が歌っている。
ごつい岩、巨大な生物の骨で作られた荒々しい王座。
人魚の歌を聴きながらその青い男は頑丈で粗末な王座にまどろむ。
歌う人魚にはその華奢な肌に不似合いな襤褸。
それでも彼女の青い髪は様々な色に変化しながら潮流に流れる海藻。
半身の鱗はきらめく宝飾貝。
青い瞳に品の良い青みのかかった白磁の肌。
そして何よりもその唇から紡がれる旋律は
たったひとりの王を慰めた。


彼女はただひとりの男の為に歌った。
遠い昔の伝承から新しく作られた恋の歌まで様々に織り交ぜて。
その王国はただひとりの男によって作られた。
逃げてきた恋人達はそこに流れ着き、妖魔を打ち倒しそこに王国を作った。

どんなに巨大で強固な王国もはじめの基はささやかなものだ、

男はそう言って黙々と王座を積み上げ、そこに座った。
倒した妖魔との戦いの傷跡が彼の足を激しく損なってはいたが
王座に座る彼の威厳を損なう事は微塵もなかった。


そして人魚の女は彼の為に歌った。
自らの種族とは違う容姿の男の為に。
彼の青い髪は暗い混沌の鬣。
青い肌は冷たい潮流。
口元から覗く鋭い牙はがっしりした横顔に凶悪な陰を落とす。
唇から放つ声の多くは咆哮。
爆流を生み破壊を連れてくる。
鱗だらけの二本の足は鋭い爪を持ち
この海でもっとも醜い者としてこう呼ばれた。

『海ヘビ』



彼は一日に一度必ず人魚に問いかける癖があった。
さらうように連れ去った人魚の娘。
娘の姿を一目見た時から彼は何もかも目に入らない愚か者となった。
彼は注意深く声を落として聞いた。
それでも彼のみすぼらしく強固な王国一帯に響き渡る『声』



「何故?」

すべての生き物達は怯えて岩陰に消える。
人魚だけが微笑みを絶やさぬまま柔らかな視線だけを向けた。
彼女は特に答えなかった。
歌を変えただけ。
男はその歌を聞くのがとても好きだった。
一度だけ歌の題名を問いかけたがそれさえも人魚は答えなかった。
柔らかな微笑みで男の手を握る。

「謎だよ。この海で最も美しい者が何故最も醜い者に?」

「その答えは多分この子が知っていますわ」

人魚はそっと男の手を自分の腹部に導いた。
醜い男はその青い目の奥に自分でも理解していない感情を浮かべた。
その感情は人魚の知る限りどんなに優美で繊細な男人魚よりも
美しく見えた。
凶暴な容姿の奥深く隠された特別なもの。
それは表に現されないだけ深く純粋に存在できていた。
それに比べればどんな美しい男人魚の囁きも耳に残る事すらなかった。
男の瞳の奥にそれを見た娘は退屈な日常を捨てた。
厳しい世界も知らず、高度な教育と理想で育てられた娘は
『美しいもの』が欲しかった。
それが何であるかまでは理解しないまま。

「何故?」

繰り返される男の問いかけ。
それは答えを求めるでなくその存在がそこにあることを確認する行為。
粗末な王国の王は胸躍る『謎』を抱いてその日を待つ。


「名前はどうしようか」

「さあ、まだ考えていませんわ。
それこそ『リドル』とでも名付けましょうか」

「謎...か。妙な名前だ」

「生まれるまでまだ時間がありますわ。
男の子か女の子かもわからないのに」


人魚が笑った。
男はその手の爪を用心深く人魚の肌から遠ざけながら触る。
人魚は男の耳にそっと唇を寄せ囁いた。


「私はあなたによく似た男の子が授かる事を願いますわ」

「さぞかし乱暴な息子になるだろうな...」


男はぶっきらぼうに答えると顔を背けた。
人魚は微笑んで気にもしない。
彼女は知っている。
彼があさっての方向でどんな表情を浮かべているのかを。
そしてそれだけがこの恋人達の知る謎ではないものだった。



娘は再び歌い始めた。

男の片足の痛みを和らげる為に。
彼女の唄に備わったささやかな治癒能力。
王座の男は明日の為に眠った。
この王国を強大なものにする為に明日もまた妖魔と闘わねばならない。
そしていつか同胞を集めて本当の王となるのだ。
人魚の娘にふさわしい宮殿と美しい宝飾品を。

男はまだ渡せない妖魔の牙を彫った髪飾りを懐に隠したまま
遠い日の夢をまどろみの中に見ていた。
男の夢の中でその髪飾りは高価な貝細工や真珠を輝かせていたが
娘の微笑み以上に輝く事はなかった。