草原の満ち潮、豊穣の荒野
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60 波〜Staring at the sea

ルー、青い髪と肌の子供はいつも笑っている。

生まれた時から他の感情すら知らないように
いつもにこにこしていた。
時折年上の少女達にからかわれても彼は笑った。
普通に話す事を学んでからも彼は口数少なかった。

彼の通う神殿のとある教室。
そこにはいつも鳥達がやってくる。
窓辺から見える木々や緑は豊かに茂り、神官達は不思議そうに
眺めては通り過ぎて行く。
ルーをからかう少女達も彼に近づいて声をかける事で
気分が軽くなるのを感じていた。
彼を頭の足りない子供、と密かに呼んでいた中年のある司祭も
ルーと目が合って笑いかけられると持病の偏頭痛が止んだ。
カノンは毎日それを見ていた。
手隙の折にはわざわざその教室の傍を通る。
授業が終わればそれとなく帰るルーを見送った。

そんないつもと同じ午後。
空は新緑の季節にどこまでも青い。

「司祭様、さようなら」

「ああ、気を付けてお帰り」

少年少女やもう少し小さい子供達が街へ戻ってゆく。
ルーも最近はブルーが迎えに行かなくてもひとりで帰っていく。
見た目はまだ少年と子供の中間にいる背の低い『子供』。
胸に青い焔を燃え立たせている以外はカノンの目にも普通に映っていた。
相変わらず素性も何もわからないままだったが。



「ルー君、君も気をつけて帰りなさい」

カノンは見慣れ始めた姿にそう声をかけた。

「....」

「ルー君、何かいるのかい?」


彼はぼうっと木を見上げて立っている。
鳥が騒がしくさえずるその木は豊かな青葉が揺れていた。
時折、風や飛び立つ鳥にこすれ合った葉が音を立て
それを見上げているようでもあった。



「あ、司祭様」

ルーはようやく振り返るといつものように満面の笑顔を向けた。
カノンにも『それ』は心地良い。

「珍しい鳥でも来たのかな」

木を見上げるカノンにルーは手を大きく振って駆け出して行った。

「また明日!さようなら、司祭様」




「バカ!あぶねえだろ!前見て走れ!!」


カノンの耳にやはりここ数日馴染みかけた声が飛び込んできた。

「オレは荷物が多いんだ!
まったくクソガキ共は考えなしで突っ込んできやがる」




司祭は溜め息と共に眼鏡を指先で押し上げた。


「...ブルー殿、毎日ご苦労だね」

「あ、こりゃお出迎えですか。あんたほんとに親切だね」

「そうじゃなくて...」


神殿の行きは上り坂。頭からブ厚いマントだかボロ布だかを被った
青い男が両手に抱えた大荷物を下ろした。


「こいつが割れたらどうしてくれんだ。やっと最後だってのに」

「...本当に50本運んで通うとは君もマメだね」

「祭り用だかなんだか知らねえけど、やたら飾りつけやがって
一度に運べる量が少ないんですよ」


ブルーの言う通り、果実酒の入った瓶には一本一本
小さな馬の硝子細工が施され少しでもぶつけたら壊れてしまう。
ひとつひとつ緩衝布で包み、両手に抱えて坂道を往復するのだ。
子供達が元気良く走り抜ける度、この臨時の酒屋は怒鳴り散らした。

「少し持とうか」

「いや、あんたは祈ってくれりゃいいんです。
ってか、カノンさん、あんた重いもんなんか持てねえんじゃないか?」

「君はどこまで悪気があるのか判断に苦しむよ」

「なんかオレ、悪い事言いましたかね?」

「いや、別に」


ブルーは一瞬考えたあと少し声を落として言った。

「もしかして痩せを気にしてるとか?」

「.....」


どちらかと言えばブルーの方がカノンより背が低いものの
基本的にがっしりして見える。
それは古風な司祭服をきっちりと着て露出もほとんどないカノンと
そのへんの適当な服やボロ布をひっかぶり室内では腕まくりどころか
酔っぱらいと力比べに興じているようなブルーとでは
身体特徴以前の問題でもあったが。



「デブよりいいですよ。ありゃヤセより体力ねえし、喰う量は多い。
まあ、そりゃ男ならさ、筋肉くらい少しはあった方が女にゃ
受けがいいってのは確かだけど、あんた聖職者だろ」

「...君はまだ潜在的に悪意を持っていないか?」

「失礼な!」

「どっちが失礼なんだか」

カノンは人差し指で眼鏡を押し上げ、少し不機嫌な目をごまかした。
どうも彼はこちらのペースを崩してくる。
まわりから慇懃無礼を影で囁かれるカノンにとってブルーは
そのポーカーフェイスをまともに覗き込んで来るような節があった。
そもそもカノンの前で愛だの恋だのバカ丸出しで晒すような
無防備な人間はほとんどいない。
彼に面と向かってタコと言える人間もナタクやごく一部の人間だけだ。
...にしてもブルーは無防備にも程がある。
カノンは話題を変えた。



「ブルー殿、それはいいとして、最近はルー君も
すっかり馴染んで君も安心したかい」

「あ.....ああ。あいつね。
うん、そりゃ願っても無い。
まわりのジャリ共とうまくやってくれりゃ何よりだし」

ブルーはボロ布越しに空を見上げた。
まともに見上げればまた日差しを浴びて面倒な事になる。


「あ....」

「?」


ブルーの視線の先には別に何もない。
ただ青空が広がっているだけ。

「どうかしたかい」

今日二度目になる問いかけをしている事に苦笑いが出る。
見た目も同じならやる事も同じなのか。

「あのさ...」

「うん?」


ブルーは何か言いかけてそのまま頭を振った。


「いや、なんでもない。
じゃ、オレ酒を祭壇に持って行きますよ」


彼はボロ布の奥に亀のように首を縮めると
すたすた行ってしまった。


「やれやれ...」

カノンは溜め息でそれを見送った。










下り坂。

ブルーは口笛まじりで下ってゆく。もうすぐ新緑祭だ。
あの娘を近くで見られる。
ブルーはあの娘が女神に決まったのか確認する事すら、頭になかった。
彼にとってあの娘以外が女神をやるなどという事はあり得ない。
確かめる必要などないのだ。
まだ夕方には早い。なんとなく彼は立ち止まってあたりを見回した。

「....」

誰もいない。


口笛はやみ、ブルーは肩を落とした。
この前、すれ違った場所で彼方を眺める。
何処にもあの姿は見当たらなかった。

「ふう...」

用心深くボロ布をほんの少し上げて彼は空を見上げた。
少し雲が出た青空。



空の青と雲の白。
遠くで風が並木を揺らして過ぎる。

懐かしい風景。
寄せては返す波。
沖へ向かい、浜へ寄せる波の先は白い。

海の青と波の白。

「...娘さん、こいつがあんたにゃ
どう見えるんだろうね....」


ブルーはボロ布を無様な亀のように被り直すと街へ歩いていった。
時折街人が通りすぎるが誰も彼の想いを知る者はない。









その頃。

日が暮れはじめ、風がやや強くなった神殿の庭園を
歩いていたカノンが立ち止まり、木々を眺めていた。
ざわざわと豊かに茂った『特別』な場所の緑が揺れている。
ルーがいつも通り抜け、笑い声を振りまく小道。

カノンはふと思った。

波の音によく似ている、と。