草原の満ち潮、豊穣の荒野
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55 負け犬〜Don't you fucking know what you are?

月が出ている。
うっそうとした森の木々の隙間から足元を照らす月光。
ブルーは足早に目的地へ歩いていた。
遅れてしまったのだ。司祭に自分から要求しておきながら。

「あのクソガキ!」

ルーがいつまでも眠らずついて回ったのだ。他の用事ならともかく
今日ばかりは。あの上品な司祭を殴って気分爽快のつもりが
これではのっけから司祭に嫌みのひとつでも喰らうのは間違いない。
ああいうタイプは遅刻なんかありえない。
ブルーは走り出した。
ケンカの前に謝らなきゃならないなんて出ばなをくじかれるにも程がある。
小一時間程遅れたかもしれない。


泉のほとり。
昼間よくカップルが待ち合わせては遅れた遅れないと
ささやかなケンカになるのを人ごととして眺めていたが
選りに依って相手は...。

「申し訳ない!」


想像した通り、司祭が立っていた。
銀色の棍を持ち、感情は見えないものの冷ややかな目を
ブルーに向けた。

「落ち度はこっちにある。待たせちまって申し....わあっ!」


いきなり薙がれた棍。
咄嗟に飛び退ったつもりがそれでも脇腹を掠めブルーが怒鳴った。


「クソ!人が話してるってのに何考えてやがる!!」

「君が、僕の腕前を見たいと言ったんだろう。
待たせて悪いと思うなら、言い訳をしている暇に構えるんだね」


「あんた根に持つタイプだろッ!」


舌打ちしてブルーが水場まで退がった。
武器は持っていない。丸腰だが忘れてきたわけでもない。

「面倒くせえ!」

泉の中に踊り込んでブルーが叫んだ。

「来いよ!それとも足場が気に入らねえかい?」


カノンは迷わず水場まで進んだ。
足場から崩してくる考えか、と想像はつく。
そんな小細工が通用すると思っているならば、本当に子供以下だなと、小さく呟いた。


「不利な条件は君も同じだろうに」

「オレは獣人だって言わなかったっけ?」

ブルーの口元が耳まで裂ける。
水の匂いに細胞がざわつくのをいつもなら抑えていた。
だがこの時ブルーはそれを一切しなかった。
獣化の苦痛を高笑いに摺り替え水面に立つ。

「説明なんか面倒だ。コレならバカでもわかるだろうよ。
オレはそういう種族だ。水場じゃあんたの負けだね」

半獣の半ば化け物じみた形相でブルーが吠えた。
泉の水が荒い波を立て生き物のようにカノンの足を襲った。
間合いは取らせない。離れた位置にいてもブルーには切り札がある。
海と同じわけにはいかないが水さえあれば、操る事はまだ出来る。
少なくとも相手の動きを封じるくらい楽勝だ。


「悪く思うなよ。オレはあんたをブン殴らない事には気がすまねえ。
ただそんだけだ。ま、死なねえよう気をつけてな!」

忠告は咆哮に変わり水面がカノンの背丈を覆う程立ち上がる。
激しい波がカノンの全身を叩き続け、さながら嵐の中に立っているようだった。


「ひとつ、問う」

激しく水に打たれながらも、ひたとブルーを見据えたまま、カノンが尋ねる。


「なんだよ?」

「君は『人』かい?」

「そんなこと知るかよ。獣人を人間扱いしねえ奴はザラにいるがね」

「獣人か人間かの問題じゃない。
君が、広い意味で『人』かどうかを聞いている」


ブルーの下半身から尖った尾鰭が衣服をあちこち突き破って覗く。
水面に鎌首を上げた蛇のように彼は『一本足』で立っていた。

「あんたこそ『規格外』の連中をどう思う」

ブルーの目が軽蔑の色を浮かべて司祭に吠えた。
こいつもあの連中と同じだ。選ばれた奴らだけの為に世界があると
思っていやがるクソだ。





「君の言う規格とやらが『人』を指しているなら、僕はその敵を滅する者だ」


カノンが恐ろしく無表情な声で答えた。


「....」


ブルーが僅かに退いた。
彼ははじめて自分がとんでもない間違いを犯した事に気付いた。
この男に『化け物』で脅しをかけたようなものだ。
負けたくなかっただけのつもりが、何故こんな事になったんだ?
カノンがその気になれば勝負は一瞬で着くだろう。


「....おい。これは手合わせだろ?」


ブルーの感情の変化を現すように波が引いていく。
自分でも不様な言葉を口にしていると眉をひそめた。
ハンデをもらって勝つ事のみっともなさにも気付いてしまった。
恥ずかしさと恐怖が襲いかかってくる。

この男はまともじゃないんだ。以前見て感じたはずだ。
そんな奴になんだってオレはケンカを売ったんだ?

波が完全に治まった。
カノンは浅瀬に顔をまっすぐ上げて微動だにしない。
かたやブルーは目を反らし俯いてしまった。

「君が『人』なら手合わせの約束だ。応じるさ。
ただし、そちらこそ死なないように気を付けるんだね。
手加減する気も失せた」

「......」

後ずさりすら出来ないままこの場をどう逃げ出そうかと
そればかりがブルーの頭の中で駆け巡る。
今の半獣の姿がとてつもなく滑稽に思えて仕方がない。
完全に負けている。上品で育ちの良い最も嫌いな人種に。
みじめさが獣化の痛みを倍増させブルーはその場に座り込んだ。


「君を見ていると、呆れを通り越して怒りさえ覚えるよ」

カノンが情け容赦なく言い放った。棍を上げる事もないまま終わったのだ。
ブルーは答える事もできなかった。
自分が最も軽蔑していたはずの『弱虫』に成り下がった今、負け惜しみや減らず口すら出なかった。
この感触は前にも確か....


「……今判った。
どうやら僕は無意識下で、君の中に古い友人の姿を見ていたようだ。
―――だが。
勘違いも甚だしい。
君のような未熟者と彼を重ねるなぞ、彼に対する冒涜だ。
どうしてそんな事を思ったんだが、自分に腹が立つよ」


「....クソじじい....」

「……?」

俯いたブルーの不穏な一言にカノンが顔をしかめた。

「やる気がないのなら、僕は帰らせてもらう。
これ以上君のルールに付き合って時間を費やすのもごめんだ。
君が『人』だろう事もよく解ったよ。『世間知らずの子供並』だとね」

ブルーがぼそついた声で言った。

「あんたにムカついてた理由が...やっとわかった...」

「ああ、そうかい」

「あんた、あのじじいそっくりだよ。上から物を言いやがる所が特にだ」


ブルーがゆっくり立ち上がった。威勢も自信も消し飛んで力なく拳を握る。
これはプライドの問題だ。ブルーのちっぽけな絶対感。
消えそうな程弱ったそれを握りしめ彼はカノンに近付いた。
おどおどと。

「.....」

カノンのうんざりしたような溜め息の後、鈍い音が静かな夜の泉に響いた。












数時間後。
ブルーは顔に大きな痣を作ってこっそり酒場の宿に戻ってきた。
恥ずかしそうに痣を隠し、獣化でボロボロになった衣服はまるで
寄って集って殴られでもしたかのようだった。


「くそったれめ...」

夜明け前、人気のない洗面所でブルーはひとり顔を洗って毒付いた。

「手加減しやがらねえとこまでそっくりだ」


この街を今すぐにでも出たい。
デライラはまだ戻ってこない。
明日にでもあの司祭は自分にいろんな事を話させるだろう。
何から何までみじめだ。

ブルーは音を立てないように慎重に着替えると痣を隠すようにフードを
深く被り宿から出た。まだ出て行くわけではない。
ただ、歩きたかった。頭を冷やす為に彼は夜明け前のまだ暗い街を
とぼとぼと歩いていた。

知らぬ間にその足はある方向に向かっていく。


小さなパン屋。勿論開いているはずも無い。
ブルーはしばらく店の前に佇んでぼうっとしていた。
開いていればあの娘が見られただろう。
パン屋は早朝から仕込みを始める。もしかしたら...

白みはじめた東の空。
店に明かりが灯る。うろうろしながらも
はっとして顔を上げたブルーに店の中から声が響いた。

「なんの用だ!こんな時間に人の店を覗きやがって盗人か!?」

ブルーが待っていた声ではない。
彼はよけいにみじめな気分で逃げるようにその場から走り去った。


オレは世界中で一番情けない男だ...


彼はその朝、太陽に中指を立てる気すら起きず昼すぎまで
ベッドに潜り込んで出てこなかった。