草原の満ち潮、豊穣の荒野
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28 永遠の楽園〜暗雲

『人はいつも楽園を夢見る。
常若の楽園、苦しみは遥か彼方
悲しみも怒りも妬む心もない。

女神は優雅な姿を人々と同じ大地に横たえ
微睡み続ける。
精霊は永遠の春を唄い半獣半人の様々な姿で
輪を描いて踊る。

花は香り泉のせせらぎは美酒のような芳香を放つ。
紛れ込んだ旅人はそこにとどまり過去を忘れる。
麗しの乙女に恋われていつしか楽園と同化する。
思い出した者は一目、と願い戻り
苦悩の世界に残酷かつ強引な方法で還る。

それでも人々は空や海の彼方に
その背中に負った重さを忘れようと夢を見る。
ティルナ・ノグ、ニライカナイ、シャングリラ....

春の乙女はその柔らかな指先で宴へ誘い
すべてを包んで受け止める。

美しい若者は力強くその手を引いて
まっすぐに愛情に溢れたまなざしを向ける。

小さな妖精は子供の手を取り
心弾む冒険へ誘いかける。

黄金の林檎、鮮やかな宝石の鳥類、生きた豪奢な鉱石
生き続ける古い時代の生物。
老人の耳には慕う子供達の声が絶えまなく響く。


永遠の楽園。
信じてやまない夢。

その指先から零れ落ちる砂の如く
私は涙を落とす。
この世は闇だ。
人が人を踏みつけて歩いて行く。
黙して肩を落としたまま。


火よ、風よ、土よ、水よ。
狂気の果てなら彼の地はあるか。

星よ、月よ、海よ、山よ。
太陽に焼かれればそこに辿り着くか。

灯台が光る。
暗闇の海に星が瞬く。
船乗りが代わり映えのない波の上で欠伸をする。

風が吹いて来た。
もうすぐ嵐が来るのだ』



〜オンディーンが読んだ書物にあった詩編〜







「オンディーン、ガレイオス様が呼んでる」

人魚の腰巾着が青い顔でそう言った。
神殿内の学び舎。
オンディーンは講義を終え
立ち上がると顔も見ずに答えた。


「ついて来なくていいですよ」

「.....いいかげんにしろよ」

「何を?」

「試験だよ!君はいつもわざと白紙で出してる。
決して難解な物じゃないはずだ。
司祭達さえ読んでないような書物を君が持ってるのを
ぼくは知ってる。
子供じゃあるまいし、なんでわざわざ上の人間を
怒らせるような真似を続けるんだ。
なんの意味があるんだよ」

「怒るのは相手の勝手です」

「なんで敵ばっかり増やさなきゃならないんだって
聞いてるんだ。
ぼくは君の事は嫌いじゃない。そりゃガレイオス様に
言われて一緒にいるけど、それならそれで理解したいよ。
君は友人も作らない。誰も寄せつけない。
ガレイオス様も怒らせてる。
そんな事してなんの得になるんだかぼくにはわからないよ」

「前に言いませんでしたか」

「え?」

「神殿の人間は全員反吐が出そうだ、ってね」

「人の親切がわからないんだね、君は」

「自分から親切だと言った奴に本当だった
試しはありませんが」

「...勝手にすればいい。
ぼくはもう知らない」




回廊を渡る。
神殿の奥の一室に歩いて行く。
突き当たりに重い扉の一室があった。


「入ります」

「.....」


天井の高い室内、ステンドグラスの飾り窓。
豪華ではないが荘厳な印象を与える。
そこには金色の目をした海の獅子が立っていた。
無言のまま報告書をオンディーンの足下に放った。

「説明しろ」

束になった書類。
賭博、遊廓での素行、無許可での資料持ち出し
傷害、不敬の言動...ざっと数冊の本になりそうな分量。


「事の次第によっては相応の処分を検討する」

「と申しますと」

「貴様のいた薄汚い場所へ戻す、という事だ」

「こことそう代わり映えしませんが、それも悪くありません」

「尤もその前にあの腕の事も説明してもらおう」

「....持ち主が名乗り出ましたか」


獅子は目で笑った。


「貴様の親族はわかったがな」

「..........」

「都市内の者は全て管理登録されている。貴様は違法に
この都市へ入った。本来なら賊として殺されても
文句は言えまい。

それはそれとして、母親がどうしているか知りたくはないか」


「母親など知りませんが」

「調査に動揺して消息不明、だ」

「関知する所ではありません」

「都市から出たなら生きては戻らんだろうよ」

「神のみぞ知る、です。私にどうしろと」

「単刀直入に言う。貴様は目障りだ。
老師の考えはこちらも関知しないが
そうそういつまでも自由に出来ると思うな」

「次期総指導者の就任後を考えろと」

「バカではないようだな。今のうちにせいぜい
荷でもまとめておくがいい。
白紙で解答を出したのもそのへんを心得てはいるようだが」

「資格など不要です」

「剥奪されるものなら尚更な」

「仰る通り」

オンディーンは笑いさえ浮かべて返す。
互いに目だけは憎悪の色を浮かべたまま。

「今後何かひとつでも事を起こせば老師とて
かばいきれぬ事を肝に銘じておけ。
慈悲深い方なればの恩を貴様は仇でしか返さぬ。
彼の地上ではそういう者を『犬』と呼ぶそうだ」


「荒野や草原を走る生き物なれば誇りとしましょうか」

「ふん、好きにするがいい。直にあの腕の件も洗い出す。
どのみち同じならず者ではあるだろうが、貴様の来た
ルートや背後関係も洗い出して叩き潰す必要があるからな。
ならず者共の街は存在する事も許さん」

「ご苦労様です」

「わかったらさっさと消えろ」





足早に学生はマーライオンに礼を向け立ち去った。
入れ替わりに入って来たのは老人。

ガレイオスは頭を深く垂れ、敬意を表した。


「追放するならしばし待て」

「何故です。老師」

「あれはいろいろと問題がある。このまま放っては
却って良くない」

「.......きちんと話して頂けない限りいかに貴方でも
例外は認められません」

「頑固な奴じゃ。だが話すにはお前も未熟すぎる。
奢るな。お前は聡明で指導者にふさわしい。
じゃが高みに居る者には見えぬ場もあると心得よ。

....とは言えいささかあれの素行は問題ばかり起こしおる。
何処へ行くかわしでも見当がつかん。
もうしばし、二人とも事を荒立ててくれるな」


老人はさっさとそれだけ言い残して出て行った。
残った獅子は無言でオンディーンの登録書類に目を
通しはじめた。何か探すように。


「唯一の我が師にふさわしくない者が師事するなど
誰が許しておけるものか」