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ムシトリ日記
加藤夏来
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2006年07月11日(火)
『煉獄(インフェルノ)』断片3 七ツ

「きみ、すまないが、」

彼の声で足を止めた。真昼の修道院の城壁だった。二重に石壁で囲われている、このマイエラの神と法の砦は、大河エイナールの中洲、聖エジェウス島の上に巨大な船のような姿を見せている。マイエラ地方の最大の軍事力である僧兵聖堂騎士団を擁し、半ば以上強制的に土地の権力者たちの服従を要求する威容は、あたりまえの君主の城砦となんら変わりない。そこに満ちている兵が、鎧にも衣類にも三叉矛を模した黄金の十字架を刻んでいることを除いては。

そのときわたしを捉えた奇妙な感覚は、その点にあった。つい先ほど説明した事実に反するが、わたしは体のどこにも十字架を掲げていない。聖職者の一人として数えられていない、したがって賎民として扱われる雇用の歩兵である。しかしかけられた声音は、命令するのでも投げつけるのでもなく、遠慮がちに呼びかけるものだった。

「何か」
歩み寄ると、一人の少年が城壁上の見張り通路にたたずんでいた。階級章は従騎士。ようやく十代半ばか。隣に立つときに履剣の銀の細工がちらりと光り、無言で彼の俗世における立場を訴えてきた。それがなかったとしても、きれいに短い黒髪を撫でつけた端正な顔立ちは、農夫の子と見まごうようなものではなかったが。

「丘の上に杜松の木がある。何本になるか数えてくれないか」
日差しはぎらぎらと痛かった。私は言われるままにエイナールの対岸を透かし、川べりの丘陵に繁る大木を数えた。それらは対岸のドニの町外れに門衛のように整列し、悠久の水の流れを監視している。
「三本」
「……ありがとう」
声の間に小さなため息が交じったのが聞こえた。どうにも妙な子供だった。
「おかしなものを気にされる」
「そうだろうか」
当たり前ではないだろうか?




「少なくとも他の若殿方は、屍を吊るした木なぞ一顧だにされませんな」




そのときの彼の表情に、わたしは先ほどからの感覚をいっそう強くした。正確には、表情の『無さ』に、だ。そして自分が何に異常を感じているのかも、遅ればせながらはっきり意識しつつあった。枝に吊るされているのは、南岸に蜂起した反逆者である。勇猛をもってなるアメデーオ隊長の剣騎兵隊が、生きたまま首謀者を連れ帰り、皮を剥いで体とともに吊るした。

修道院を汚してはならないというので、南の川原で行われたその処刑に、多数の騎士が参列していたし、不必要なまでに苛烈をきわめた仕置きの様子を、誰もができるだけ早く忘れたがっていたのだ。なのに、城壁から木を望む少年の表情には何事もなかったかのような平安しかなかった。

しばらく戸惑ったように黙り込んだ末、子供は決まり悪げな、短い笑い声をたてた。
「いや、すまない。実を言うと、私はまだまだ腰が落ち着かないんだ。死体を見れば震えが来るし、むごい仕打ちからは逃げ出したくなる。そんなことでは騎士はつとまらないので、せめて少しでも慣れるよう、こうして眺めていたんだけど、どうにも我慢できなくなってね……」

履剣の柄の上に置いたこぶしが、小さく痙攣していた。黙って見下ろしていると、少年はやはり仕方無さそうに笑った末、明快な声をたてた。

「本当は誰でもいい、傍にいてほしかったんだ。こんな言い訳しか思いつかなかったのが情けないが。だが、まあ、分かってくれ。恐ろしい光景だと思わないか」
「……」
「ああしてずらずら並んでいると、まるで醜い果実がなっているようだ。しかし彼らの誰についても、魂があり、人生があった。それがひとしなみに物のように吊られている。恐れで人を打ちのめす力にしても、ああも数が増えてしまうと、大きすぎてかえって無意味のように思えてしまうんだよ」
「いくつになりますかな」

見上げる気配が感じ取れた。日差しを額に構えた掌で避けながら、わたしは子供を見下ろさず、同じ問いを繰り返した。

「杜松の木の屍は、あれはいくつになるでしょうな」
下からいぶかしげな、短い間が来る。
「七つだ」
わたしはゆっくりと、丁重に腰を折った。






「若様、屍は一つしか下がっておりません。そもそも罪人が一人しかいなかったのですから、それは当然のことです。何故にあなたの目には、それほどたくさんの屍が見えるのでしょうか」


少年の顔から、無表情が剥がれ落ちた。