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ムシトリ日記
加藤夏来
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2006年06月08日(木)
水を歩く日

少し前のことになりますが、実家に帰った折高校の頃の友人数人と久々に会いました。随分な年数で久しぶりの人もいたのですが、誰もが基本的には変わっていなくて、天ぷら衣をつけた海老を見ているような感覚でした。

中高はずっと同じ学校で、それは周り中がそうでしたが、私の周りではさらに世界が限定されていました。じつに六年間ずっと、わたしはほぼメンバーの限定された同じグループに所属していたし、その他のクラスメイトが何に関心を持っているかさえ、よく知らなかったものです。

その頃は行く場所も、話す内容もほとんど決まっていて、世界に明らかでないことはほとんどないように思えました。時間が過ぎたための錯覚かもしれませんが、ある日ふと立ち止まって、何年か経ったらこんなに何もかもが明瞭な高校時代を、自分は忘れてしまうのかと不思議な気持ちになったことは、はっきり覚えています。

話は戻って、お約束として卒業アルバムも引っ張り出してきて皆で眺めましたが、その中にはやはりまったく覚えのない風景や、名前を思い出せない人がたくさん入っていました。不思議な気持ちでしたが、それと同時に願望も覚えます。忘れたくない、失くしたくないと。

もちろん実際には、日々流れ込む情報を歩いていく内に、私たちは少しずつそれらを失っていきます。人間はずっとそうやって生きてきましたし、人を情報の塊だと考えれば、人類そのものが情報の流れだということになるでしょう。長く記憶に留められる偉人もおります。ごく普通に生きて、数世代のうちに忘れられる人も――というかそれがほとんどです。

映画『トロイ』ではありませんが、それを流してしまえない種類の人が、世の中にはいます。また、自分自身が忘れられることに耐えられても、何かの想いを残さないことには死んでも死にきれない人もいます。先に人自体を記憶に例えましたが、何もそれはヒトという種族に限ったことではありません。脳を持った全ての動物が、それぞれの形で記憶を持っているでしょう。ただし、脳内の微弱電流と化学反応という本来の記憶の形を、別のものに転化させることができたのは、人類だけです。

記憶がヒトを超えようとしたとき、言葉は生まれました。
想いがヒトを超えようとしたとき、物語は生まれました。

留まれ。消えるな。忘れたくない。自然の流れに反する願望でしたが、それがヒトを他の生き物から分け、人の尊厳を作り、人の業を生み出したと私は思います。

いつか消えていってしまうことの中に、忘れたくないことがいくつかあります。それを形にしようと思うと、私は文字に向かい、小説を書きます。いつも師匠が口を酸っぱくして言うのですが、長編小説と短編小説には明らかな違いがあり、私はまだ長編をものしていません。それにもきちんと意味はあったと、今更のように思っています。行為をもって想いを積み重ねる以外に長編を作り上げる方法はなく、それはヒトが人になる過程を忠実になぞることではないかと思うもので。