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ムシトリ日記
加藤夏来
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2006年04月03日(月)
ブロークバック・マウンテン(ネタバレ感想)

ボディーブローと評価する人が素晴らしく多い。その通り、映画館で見ている間の感情が全てでは決してない。間抜けにも、私はラスト近くでイニスがクローゼットで見つけたものの正体を正確に把握していなかったので、最大のインパクトを後付けで理解したことになった。あからさまな説明の非常に少ない映画なので、ひとつのシーンをとっても観客それぞれで解釈が異なる。もちろん、「話が眠くてクソつまらん」という見方も大量にあり、一人ひとりあまりに温度差が違うのでmixiあたりで感想をずらずら見ていくと頭がクラクラしてくる。

この映画は「何を主題とし、どこが眼目であり、それについてどういう態度をとるか」を自分で決めなくてはならない作品である。「ゲイ映画というカテゴリーでくくってはならない、普遍的な愛の物語である」という切り口で入る人もかなり多いし、「間違いなくゲイがその解放の主張を(実態の提示という形で)歌う物語である」とする全く反対の見方もあり得る。そこにあるのがストーリー構成の呪縛を受けていない、ごく普通の人間の姿だからだ。とにかく、びっくりするくらい役者が真実な姿を演じている。主役二人に関して言えば、正真正銘の二十代半ばのストレートなんだそうだが、そのプロフィールを見てとるのは不可能だ。俳優ってここまでするものなのか、と。

そして逆にあまりに生の人間なので、ストーリーのカタルシスを求めてくる普通の鑑賞者が見た場合、単に後味の悪い作品で終わりかねない。見に行った限り、観客が皆揃って悄然として映画館から出てくるので、少々心配にもなった。「面白かったねー!」「あかんわこれー!」と同行者と話し合うのは映画料金の中に含まれていると思うが、これは中々そういうわけにはいかない。個人の胸の中に留めておきたいものが多すぎるのだ。

それは、これがそもそも孤独な愛の物語であるからだと思う。

「おれ達にはブロークバック・マウンテンしかないじゃないか!」

悲痛なジャックの叫びに、全てが入っている。運命の恋人同士として二十年の歳月を送ったにも関わらず、イニスとジャックの間には何もない。夏の日の永遠の愛の他には。妻を迎え、子を産み、社会的な地位を築き(あるいは築けず)、半生を送ってきた間、ずっと心の中の玉座を与えあってきた相手なのに、それでも彼らは相手に対して為すところが何もなく、何かを為されたこともない。

それは、実際に『それ以外の部分』を共同で築いてきた二人の妻、子供たちにしても実は同じことだ。イニスはついに家庭生活を崩壊させ、ジャックは最初から楔の打ち込まれていた、傍目には豊かで経済的にも恵まれた生活を、ほとんど形骸化させながら保っている。ジャックとイニスのような形でなくとも、ジャックとラリーンの間にも、イニスとアルマの間にも、確かに真実の愛情があった。ただ、そのどれもが各人の孤独を根本的に覆す要因にはなり得なかったというだけだ。

ブロークバック・マウンテンの圧倒的な自然描写と、その後に続いていく六十年代から七十年代の典型的なアメリカの街中の描写から、「愛情の楽園であるブロークバック・マウンテンと、そこから次第に遠ざかっていく二人の物語」であるとする見方が多い。すると最終的に絵葉書になってしまった風景と、その隣に二人の記憶の亡霊のようにして並ぶシャツは、楽園の記憶を永遠に忘れることができない孤独な一人の男の、人生の墓標にでもなるのだろうか。

" Jack, I swear."

イニスの最後の台詞は、神に永遠を誓う二人のための言葉である。残念ながら、「死が二人を分かつまで」の時間制限つきの永遠という魔術は、ジャックとイニスに救いをもたらしてくれることはない。そこに何かがあると信じたくても、彼らにはやはりブロークバック・マウンテンしかない。いっそそれが無くなってくれればどれだけ楽かという、イニスの血を吐くような叫びが重い。

ジャックとイニスの場合、目に見える偏見と暴力の形で襲ってくる制限があっただけに逆に分かりやすいが、男女の愛情であろうと結局は同じことではないかと思う。恋は次第に遠ざかっていく。二人で築き上げたものも、最後には日常の中に飲み込まれていく。それよりも人は、各個人が作り上げていくそれぞれの人生と死の中には、立ち入っていくことができない。「生まれたときも死ぬときも一人」の宿命の中にありながら、誰かを求め続けることを止められないとすれば、それははっきり呪いなんではないだろうか。

アメリカの貧しさの象徴であるトレーラーハウスの中、クローゼットにあの日のブロークバック・マウンテンを閉じ込めて、二人の物語は幕を下ろす。皮肉なことに、まさにテキサス州やワイオミング州ではこの映画を上演してくれる映画館が、ほとんど見つからなかったという。二十一世紀の世の中になぜわざわざこんな保守的な価値観の中の話を出す必要があるのかという向きもあるが、その状況が少しも死んでいないからこそ、この映画の問いかけは有効なのだろう。

世間の承認のもと作り上げられたストーリーという枠を外されたとき、愛情はどういう形で立ち現れてくるか。一人一人がそこに、どういう神話を作り上げるか。できればもっと人の意見が聞きたい。……なので皆さん、よろしければ見に行って感想を教えてください。待ってます。