以下、「小説よりもマンガの同人誌の方がずっと売れる」と嘆いている人を慰めるための覚書。
・テキストデータは、圧縮率が凄まじく高い。理論上、同じビット数のデータなら、テキストよりも多くの情報を詰め込める媒体は存在しない。 ・テキストデータは、時間による劣化が極端に少ない。ほとんど千年の単位で文化を保存する媒体である。(実績あり。しかも現在とは比べ物にならないほど劣悪な環境下で、大量に) ・テキストデータは、共有性能が非常に高い。ある記号に対して付加されている意味が各個人間で比較的共通しており、意思の疎通が容易である。(というかそもそも、意思を疎通するために発明されたものである)
*同じ絵を見たときに感じる印象は、各人でまったく違う。その感想を疎通させようと思えば、言葉で説明するしかない。絵に限らず、疎通させるという作業は基本的にテキストである。自分自身の感じた印象を把握することさえ、言語なしには実行できない。
そして、これらの長所こそがテキストデータの欠点である。すなわち、
・テキストデータは情報が多すぎる。とっくに限界を超えている現代人の情報処理能力にとって、常に巨大なデータバンクであるテキストは暴力にしかなり得ない。 ・テキストデータは消費されることに向いていない。永続性を持ち、不変であることを身上とするテキストは、使った後捨ててしまってはそもそも真の価値を発揮できない。 ・言葉が通じること自体が奇跡的な現象なのに、それは当然のこととして無視されているため、主眼は意志の疎通の結果として生じる「共感・理解」に当てられてしまい、「話が通じない」という逆説的な実感を生む結果になっている。
つまり、現代の社会状況、大容量の情報が無理なく流通し、それが当然のことになっている社会で、あえて「テキストデータのみ」にこだわる必要性はない。
ではなぜ、それでもあえて純テキストデータ、小説なのか?
・それしかできんから。能力・技術的な問題で、ビジュアルデータを創造する能力がない。既にあるものから優良なものを選別する能力だけはあるが、何も無いところから画像を創出することは不可能。 ・そもそも現在までの記憶に画像データがほとんどない。あえて探そうとすると、緑と灰色のノイズの濃淡で表される始末。 →個人的な事情
つまり、そこまで能力に制限があっても参加できるほど、テキストデータは裾野が広い形式だから。そして、理由はどうあれ継続的に関わりつづけ、現在も手がけているという状況と実績は無視できないから。 問題があり、困難で、不利な状況であっても、実行が可能で実行したいと思っていればする。実行が不可能で実行したいと思っていなければしない。 結論。
・絵が描けないし、描きたくないから、描かない。 ・小説が書けるし、書きたいから、書く。
描けないけど描きたいとなったら描くのが正しいし、書けるけど書きたくないとなったら書かないのが正しい。が、無理なものは無理。
可能であるということは、それ自体が創造性の一部である。
課題・未整理 *理解と共感 小説は「必要ではない」のか? 小説は「伝わらない」のか? 小説は「本当にしたいこと」なのか? 自分のものした小説は「価値がある」のか? 「価値がある」とはすなわちどういう状態なのか? 「売れたものには価値がある」のか? 「感想がもらえれば価値がある」のか? 「自分で気に入れば価値がある」のか? 以上挙げたような実体のある結果が伴えば、「価値がある」のか? 実体のある結果は常に必要なだけ得られるものではないが、価値が保障されないときどうやって実行を維持すべきか? 維持しなければならないのか? → × 最大の問題は必要性である。 基本的に「あってもなくても構わないもの」である芸術は、個人的な情熱以外に必要性を持たない。物理的な条件によって必要性を補われることのない行動は、永続性を獲得するために狂気を必要とする。 他の例:信仰 軽めの狂気 → 思い込み(『ビアンション(自分の書いた小説に出て来る医者)を呼んでくれ、あいつなら何とかできるから』←どっかの作家の遺言) 重めの狂気 → 精神疾患(カミソリで耳を……)
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