「この世にもう一人自分がいたら、どうする?」
二年ほど前に尋ねられたことです。きっかけがちょっと思い出せないのですが、何であれ他愛もない話です。尋ねた人は素晴らしく頭のいい、話題の広い人で、「私なら絶対に友達になりたい。死ぬ気で引き止めて、すごい勢いで話し込む」とのことでした。 人通りの多いエスカレーターでしたが、私は次のように答えました。
「何を置いても殺しに行く。殺さないといけない。だって放っておいたら、その人は私を殺しに来るに決まってるから」
私は私を殺したい。よく考えてみなくても、シンプルな答でした。妙なことに、ここには同時に「死にたくない」という意識がかなり切実に表れています。自己否定というのは常に、生物の基本的な生存本能に真っ向から対立しているために、かなり深刻な葛藤と苦痛を生みます。しないに越したことはありません。
どうしてそこまで思い定めるようになったかは、すでに細かい記憶がはっきりしないため何とも言いかねるのですが、その頃私はほとほと嫌になっていたんだと思います。二十四時間、一分たりとも自分の傍を離れてくれない、自分という人間のことが。
私には先生がいます。師事し始めてからもうすぐまる四年、一貫して教えられてきたのは、「小説とは、その人である」ということでした。みみっちい奴の小説は小さい。凛とした人の小説はかっこいい。お人よしな人の小説は可愛い。自分の経験ですが、書くものがどうにも肌に合わない人とは、うまく行くことが少なかったように思います。逆も真なり。こっちの小説にまるで興味のない人は、実は私のことが必要ありませんでした。
それを敷衍して、今はこう思います。自分の書くものが自分で気に入らないとき、私は自分のありようが気に入っていない。占いみたいなものですが、占いよりは情報に信が置けます。
以前、『小説はその人自身の姿をして、隣に黙って立っている』みたいなことを書きました。信じる人も信じない人もいると思います。私にとってはこの言葉は、呪いのようなものです。例えどれだけ実際的な不安が無くても、それ自体に社会的な意義が薄くても、そんな必要がないと言われても、私は自分で満足できる小説が書けないかぎり、完全な人間になったような気がしません。
この間、冒頭の問いを発されたことをふと思い出しました。思い出した途端に、その場にへたりこみそうになりました。今ではもう私は私を殺したいと思わないし、『お互い苦労だよ、なあ』と背中のひとつも叩いてやれるということに、ふと気づいたからです。たいがいの人間はおもてに引っ張り出してよくよく姿を見てやれば、そんなに悪い奴でもすごい英雄でもないし、けっこう付き合えるかもしれないということも分かるものです。作品というのはそういうものです。人間の発明品の一種なんだと思います。
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