作品を出す、表現するとは勝負するということです。 世間とでも版権元とでも読者とでもありません。 自分自身とですらありません。
作品自体との勝負です。
何かを表現してしまった時点で、誰しもが否応なく向き合わされることになります。まるで鏡の中から現れた亡霊みたいなものと、自分自身の存在を賭けて無限に対話しなくてはなりません。
お前は何者か? 何がしたいのか? 戦ったのか? 正しいのか?
別にそれは攻撃してくるわけじゃありません。ただそこにいるだけです。自分の心の本質の姿で。 苦しんで生み出せば、作品は苦しいよと叫びます。楽しんで書けば、楽しいよと言います。 そして何かを偽れば、ただひたすら偽りのものになります。そうやって生み出した作品がもし評価を受けたら、その時作者は最大の罰を受けるでしょう。
何故なら作品は、実にはっきりとこう言うからです。「評価されるのは偽りのお前だ。誰も真実のお前を受け入れていない」と。
そう言葉にすることができなくても、何か知らないが嫌なものが心の中に溜まっていきます。気づかれれば気づかれたで容赦なく切りつけられ、気づかれなければ「気づいてくれない」「本当の自分を分かってくれない」他者に対して怒りや軽蔑や悲しみが蓄積します。それはどうしようもなく心を疲れさせ、最悪の場合には麻痺させます。
「こうなりたい」「こうであってほしい」と思っているとき、そうでない自分と向き合うのはおぞましいことです。作品は形を与えた時点で、どうしようもなく現実になってしまい、頭の中で無意識に望んでいることとのずれを誰の目にも見えるものにしてしまいます。見ているだけの人にも実はばれているんです。「この人は、本当はこういう人だ」と。
誰でも伝えたいことが伝わっていかないことに苦しむと思います。でも実は、伝わってしまうことのほうがずっと恐ろしいんではないでしょうか。最も見てほしい自分、もしかしたら絶対に外に出したくなかったかもしれない歪み、どちらも均しく取り返しがつきません。自分に対しても、他人に対しても。
放ってしまった猟犬のように、その影響がどこまでどう広がっていったのか、把握できる人はこの世におりません。
賛同してくれる人がどれくらいいるかは分かりません。ただ、少なくとも私にとって、自分で生み出した作品というのは、最も恐ろしい敵であるのと同時に、最もよく自分のことを分かってくれる友人だったと思います。例えば何年かたって再会した時にでも、それぞれの個性に応じて語りかけてくれる、信頼のおける助言者でした。無生物に対してそんな感情を抱くのが、ごく普通のことでないというのは分かっています。しかし、頭の中にそういう形式を築いてものを考えることが、まったく無駄だったとも思えません。
長々辛気臭い話をして申し訳ありません。ブックマークのひとつでした。ほんの少し、寂しいと思います。
拍手レス
みやん> FSSも確かにそうだし、エルガイムやエスカフローネもそうだね。しかし、草分けになったのはこれだと断言できる。だって一番古い!(笑 いやしかし、ダンバインは多分最後までは見ないよ。ロボットアニメばかり見すぎで気分悪くなってきた……マーベルさんは美人なんだけどなあ……。
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