ここまでとえらく雰囲気が違いますが、先方と共通点を見つけようとした結果です。ノー説明でどうぞ。「どこをどうするとこうなるねん」とは、聞かないでください……。
− 撮 影 所 −
黒いセルロイド板にペンキで白く『龍淵』と書かれた札が、留め金片方外れて斜めにぶら下がっていた。板張りの廊下にしっくいの壁、こちらへ近づくにつれて濃くなってきたワックスの匂いの中で、少女は傾いている字の方向に合わせて首をかしげる。背の高い兄は隣で辛抱強く呼び鈴を押していて、途中で腹をくくったらしく腰に手を当てた。 「お留守なの? 帰っちゃう?」 「いや、そういう理由で諦めていると、永遠に入れないから。こっちへおいで、クラリス」 手招きに応じて歩み寄ると、軽く体を引き寄せるようにされ、肩に手を置かれた。何気ない手つきから、兄ががらにもなく多少緊張しているらしきことが伝わってくる。妹にかけていないほうの手を引き戸にかけると、マルチェロはひとつ息をつき、一気に扉を開け放った。 闇があった。 床でも壁でもなかった。上も下も分からない真の闇が、内側には広がっていた。戸口から投げかけられた光で、かすかに赤紫の緞帳のようなものが左右に垂れ下がっているのが分かる。しかし、それがどこから下がっているのかも、定かではない。 恐る恐る足の先で床を探ろうとしているクラリスを、マルチェロはそっと背後から抱き寄せ、腕を回した。そうこうしているうちに、ほの白い蛍のような光が長く尾を引いて、ひとつ、またひとつと近寄ってくる。来客の様子を伺っているようにそれらが空を漂っているのを見渡すと、マルチェロはクラリスをしっかり抱いたまま呼びかけた。 「太郎飴さんにお取次ぎ願いますよ。虫捕りのマルチェロとクラリスが見学に参りましたので」 光はゆるやかに逃げ散った。 彼らが遠ざかっていくにつれ、夜明け前の数十分のようにゆっくりと室内の明度が増していく。何も無い部屋だった。いや、よく見れば何も無いわけではない。鏡のように磨きこまれた、硬い質感の床の上には、大きさも様々な白い箱が、無数に置いてある。すさまじい数が並び、積み上げられ、奥に行けばうず高く重なって、部屋自体が積み木でできあがったかのような印象があった。 なんとなく胸元の、兄の暖かい腕につかまりながら、クラリスは物珍しげに周囲を見渡した。人どころか、生きたものは虫一匹見当たらない。
「こんばんは。“ダブル”」
兄の言葉に顔を上げると、まったく唐突にそこには人がいた。人? これほど「それ」を表現するのに不適切な単語はなかっただろう。それはおそらく、樹脂あるいは樹脂様の物質で全体を構成された、真っ白な人間型のものだった。人型と言い切ってしまうにはその背は高すぎ、頭部は小さすぎ、顔の造作はシンプルに過ぎる。オレンジ色の透明な何かによって流線型の模様が組み込まれた腕の先には、これだけは見るからに精巧な手があって、今はそれは両方とも二人に向かって差し伸べられている。 「こんばんはマルチェロ。こんばんはクラリス。ようこそ。撮影をご覧になりますか」 抑揚の無い言葉にまじって、かすかなハウリングがクラリスの耳に届いた。 「はい、わたしとクラリスは撮影を見ます。ありがとう、よろしく」 返事はせず、滑るようにくるりと振り返って部屋の奥に消えていこうとする「それ」の様子を、なんとなく伺うようにしながら、クラリスは声をひそめた。 「ねえ、あの人がここの座長さんなの」 「違うちがう。接客係だよ。静かにしておいで、今始まるから」 ”ダブル”が音もなく戻ってくるのとほとんど同時に、部屋は動き始めていた。箱が滑っている。同じ大きさの箱同士が寄り集まり、平らな面を構成しはじめている。かすかな、その箱が触れ合う音を別にして、機械の駆動音もなにもなく、おそろしく効率的に見える動きで、それらは全体で白い平たい直方体を形づくっていた。 目を見張っているクラリスの前で、直方体の一部が口をあけた。ジーッというかすかな音とともに、青白い光が箱の中から放たれ、その中から複雑な形状をした、細長いものが浮き上がってくる。薄暗い部屋の中におおむね引き出されてしまうと、それはクロッキー人形とマリオネットを合わせたような、おそらくダブルと同質の素材の人型であることが判明した。マリオネットと決定的に違うことには、この人形は目に見えない手によって直方体の上に下ろされると自立し、右腕を上げて君主の前に伺候する騎士のような姿勢をとったが。 対角線上に、もう一つの人形が引き出されてくる。見えるか見えないかのグリッド線の引かれた舞台の上に、二体の人形役者が立つ光景がそこにあった。
『”黒い絵”―2』
誰のものともつかない声が響くのと同時、一瞬にして人形と箱の舞台が姿を変える。 クラリスは石壁と石の床の、ほとんど光の無い拷問室に直面していた。左手奥の壁近くに両手を上げて鎖に繋がれている人がおり、手前に剣を提げて立っている男がおり、その他にも何人か床や壁にもたれるようにしている人影がある。思わず目を見張り、真剣な考察の末に謎をといた。立体的に投影された画像だ。どういう技術でか、人間の形をしたものの表面に全方向から画像を投射して人間を作り、壁面に形づくられた凹凸の上に石壁の画像を映して、背景を作り上げている。形のある幽霊のようだった。 剣と壁際の二人を除いて、残りの人物は背景画像の中に組み込まれている。そちらに視線を向けながら、剣の男(の画像)は口を動かした。 『時間だ』 その声はあっちからもこっちからも降ってきた。画像投影が部屋中に渡っているのと同様、音響効果も立体的なもので、まるで壁中が声を発しているように見える。ただし、一人の人間が出しているとは到底思えないものだったため、台詞というより背景音楽のように聞こえたが。 剣の男は無言で壁際に歩み寄り、草でも刈るように無造作に剣を振った。それが人の命を絶つ音も、血飛沫が壁を打つ夕立のような音も、同じように部屋中から聞こえてきた。部屋のあまりの暗さに、撮影がかなり進むまで気づかなかったが、途中で剣の男以外の登場人物がどうやら性行為を行っているらしきことに気づいて、クラリスは眉根を寄せた。普段、こういう撮影現場に近づくことを、兄が許してくれたためしはない。 ただし、その疑問もやがては消えた。立体のスクリーン、立体化された映像、そしてその上で展開される、まぼろしのような演劇。おそらく、そんな貴重なものを見る価値は、ちょっとした表現上の問題より上位に置かれると、兄は判断したに違いない。
拷問室のエピソードの後に古典音楽をいくつか上演すると、撮影は終わった。始まったときと同じようにまったく唐突に照明が切り替わり、今度はごく普通の部屋と同じくらいの明るさに調整される。ずっと胸元に抱いていた兄の腕を外すと、クラリスはダブルの前に立った。 「ありがとうございました。すごく面白かったです。あの、でも、どうして普通の俳優さんを使わないの?」 ダブルの、昆虫のように表情のない楕円形の目がクラリスを指したまま沈黙しているのを見ると、マルチェロは慌てたように言い添えた。 「何故、あなたがたは人間の俳優を―――…採用しないんですか」 今度はよどみのない返事があった。 「我々のスタジオでは精密さを最も重要なものと考えています。映像表現の最も難しい点は、一般にそれが大量の情報を含んでいるという性質であり、即ちその大量の情報を制作者の完全な制御の下に置くのが難しいという側面です。ゆえに再現性が劣り、意図の表現を阻害する要因の多い人間をインターフェースとして用いることを避け、立体スクリーンを表現形態として用います」 しばらくの間をおいて、ダブルの言葉が終わったことに気づくと、クラリスは首を傾げた。 「だそうだけど、分かった?」 「全然わかんない」 「うん……まあいいや。少し話があるから、クラリスはその辺で待っておいで」 振り返ると、さっきの箱はやはり音もなく離れ、もとの無秩序な状態に戻りつつあった。くるくる回転しながら床の上を滑っているのを見ると、意外に可愛い、ような気もする。 「ねえ、触ったりしてもいい?」 兄はぎょっとしたような顔になった。ダブルと顔を見合わせ(実際に動いたのは兄だけだったが)、やや早口に問う。 「部屋の中にあるものに触ってもいいですか」 「壊さない限り、無制限に触ってもいいです。こちら側に制御機構はありませんから」 さっきよりももっと意表をつかれたような顔になっている兄を放っておいて、クラリスは手近な箱の前にしゃがみこんだ。白い樹脂製の箱。それ以外に表現のしようがない形態である。どうしたものか、床面から持ち上げようとしてもびくとも動かなかったが、大きさから言ってもそれほど重厚なものでないことは分かる。少し温かく、見た目通りつるつるして硬い。右左に滑らせてみたり、音を聞こうとしてみたり、一通り遊んでから、彼女はぱっかり上面を開いた。外側からはうかがい知れないが、運動機構と、先ほど見たような人型。それが内容物として予想できる。 全ての予想が裏切られた。 せいぜい一辺五十センチほどにしかならないその箱の中には、一人の裸の女性が入っていた。ウェーブのかかった茶色の髪、長いまつ毛の目をぴったり閉じ、箱の形に合わせて少し四角くなりながら、体を丸めて眠っている。驚くほど滑らかな、柔らかい皮膚がつややかに照明を反射し、血色のいい健康そうなその肌が呼吸に合わせて微妙な伸縮を繰り返していることから、彼女がどうやら安らかに眠っているらしいことが見てとれる。口元に寄せられた膝で、顔が半分隠れていたために詳しい造作は見えなかったが、そこからだけでも分かる顔立ちの美しさに、クラリスはしばし感嘆した。CG処理でもしたみたいだ。 それから考え込んだ。 誰か知らないけど、安らかで健康そうだ。美しくさえある。二三回話しかけてみたが、結局反応は無かった。するとこれは、この状態が正しいんだろう……箱が窮屈そうで、何とも息苦しい気分にはなる。ただ本当に苦しいのかどうかは別の話。 後で聞いてみることにした。 だから箱を閉じた。 閉じた瞬間に、クラリスは中に入っていたもののことを忘れてしまった。 次の箱には、しゅろに似たシダ植物の葉が、下も見えないほど生い茂っていた。しかし、その中から何か小さな生き物がたくさん出てこようとするかのように葉が揺れていたので、何とも言えず嫌な気分になり、蓋を閉じてしまった。次の箱には、山肌から湧く泉のようにボールベアリングの球が無数に湧き上がってきて、しかも湧く端から沈み込んでいっていた。どれも結果は同じだった。クラリスには中身を覚えていることができず、いくら箱を開けても結局開ける前と変わることはない。 自分でもやっとそれに気づき、がっかりして箱の上に座り込んでいると、まだ何か話している兄とダブルの姿が目に入った。よく考えてみれば、クラリスは一度もダブルと直接話していない。この撮影所に話せるらしきものと言えば彼? だけなのに、何やら決まりごとが複雑で、条件が厳しいようだ。箱も映写方法もそうだが、どうしてここはこんなに迂遠なんだろうか。 思いながら部屋を見渡していて、ふと気づいた。 緞帳の陰に何かが隠されている。 最初どこから下がっているのかも分からないと思った赤紫の幕は、きちんと天井から下げられていて、壁の一部を覆っている。その端から、何だかカメラのフラッシュのように点滅する白い光が漏れている。本当にかすかなものだったが、部屋の中で秩序だっていないものはそれだけだったために、ひどく目をひいた。 兄たちはまだ話し合っている。 そっとその様子を伺ってから箱を下りたのは、何か分からない感覚で、かすかに怯えていたからかもしれない。
窓だった。そしてその外に広がっていたのは、海と空だった。分厚い暗い不吉な雲の広がった空には、蛇のように青白い稲妻が走っていた。どのような厚さの壁なのか、音はまったくしない。しかし、時折空が凶暴な光量に塗り替えられるのを見れば、それが決して遠くないのは明白である。 海はただ、海だった。ぎざぎざに牙をむく荒れた波の平原が見渡す限り広がり、船どころか鳥一匹視界には入ってこない。思わず真下を覗きこんで、クラリスは窓の下に何の手がかりもない壁が続き、その先は海の中に消えているのを知って思わず息を呑んだ。この場所は海の極めて近い場所にあるか、いっそ海の上に浮かんでいると言ってもいい。撮影所の建物まで、兄の運転する車で連れてきてもらったのに。 「海です」 思わず振り返ると、ダブルは相変わらず動かない顔のまま、クラリスの後ろから見下ろしていた。 「海、海は分かるけど……」 「色々なものが棲んでいます。よいものも、悪いものも」 答を思いつかず、窓を振り返ったとき、海面には異変が起こっていた。暴れ狂う波頭の間に、明らかに尋常とは異なる水泡の塊が浮かび上がり、それはどんどん密度を増していく。窓枠に飛びつき、ガラスに額をくっつけるようにして見守っている少女の視線の先に、やがて圧倒的な質量が浮かび上がってきた。距離をあけていてさえ恐怖を覚える大きさと、速さ。それが海面を突き破ったとき、クラリスは両手を口元に当てた。稲光に照らされた緑色の鱗、背に並ぶ刃状のひれ。長大な体がアーチ型にひるがえっている間、彼女は息もせずにそれを見守り、最後に躍り上がった尾びれが海面を叩きつけると、思わず身をすくませて窓から身を引いた。 「形をなしたもの、なりそこなったもの、生命のあるもの、それを失ったもの。時間と記憶が溶け、常に新たなかたちを生み出している」 体の冷たさを実感しながら、クラリスは白い人形の顔を注視する。 「あれは、その中のどれかなの?」 「さあ、私にもわからない」 不意に手が伸びてきて身構えたものの、それは単に丁寧に緞帳をつかみ、同じく丁寧に戻しただけのことだった。しかもそれはそうなっていないことが不都合であるからというより、クラリスをこれ以上怯えさせないようにするためだということが、明確な根拠に拠らずして分かったのである。 「あれも時折姿を見せるが、我らの意志には従いません。海があれを生んだのか、あれが海を生んだのか、それでさえも理解の外にある。我々はこう呼んでいます。荒ぶる化物神の住まう場所、始原の暗黒をのんだ海、『龍の深淵』と」 「……クラリス」 凍ったようになって聞き入っていたクラリスは、弾かれるように兄の傍に走り寄った。半分隠れて様子を伺っていると、ダブルは相変わらず滑るように進み、動かない顔で二人を見下ろす。 「お邪魔しました。大変参考になりました。太郎飴さんによろしくお伝えください」 「お伝えします」 結局ダブルの声は、最初から最後まで変わることがなかった。誰かがマイク越しに話しているかのような、そのかすかなハウリングまで。
撮影所を出て駐車場を歩き出すまで、クラリスは無言だった。何となく目を合わせずに隣を歩いていたマルチェロは、かなり考え込んだ末に、妹を見下ろした。 「どうだった。他のところと随分違っただろ」 「うーんと、……何だかさっぱり分からなかった」 言いながらも、妹の視線は何か貴重なものを探しているかのような目つきで、地面に向いている。 「ねえ、でも兄ちゃん、もう一回来てもいい?」 「あまり何回も来ないようにね」 言ったところで守られないだろうという忠告をする人の口調がしばしばそうであるように、マルチェロの言葉は少し遠く、ほろ苦い。
われらは人形で人形使いは天さ それは比喩ではなくて現実のこと この席で一くさり演技(わざ)をすませば 一つずつ無の手筥に入れられる 『四行詩集』(ウマル・ハイヤーム著)より
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