昔々、インターネットを始めて最初にできた友達は、生きるのがとても嫌いな人でした。生みの親ではない人のもとで育ち、二十代にして生活保護で暮らしていた彼女は、セックスに関する意見が私とはまったく合わず、言い争いで傷つけたことがよくあります。 夜の繁華街で見も知らない男の人を待つことが多くなるのと時期を同じくして、彼女のHPには切った手首の画像が上がり、「死」という文字が頻繁に登場するようになりました。細かいことは知りませんが、現在は精神科か内科の病棟から消息を聞きます。 途中から私は、あまりに彼女に対する反応が激烈であったことが災いして、直接の連絡がとれるような関係ではなくなっていました。原因は腐るほどありましょうが、最後の決め手になったのは、「幸せになりたいと思わない」という一言です。 思えば最初から彼女はそうでした。欲しいものがない、救われたいと思っていない、そして、生きていたいと思わない。紆余曲折を経て私は沈黙しました。例えそれを聞いてどれだけ悲しいと思ったにせよ、当人が生きていたいと思っていない人間に対して、できることというのは根源的な意味で何もなかったのです。 この間、家から「少子高齢化問題についてどう思う?」という連絡がきました。おやじの台詞は単に嫁にいかない娘に対する嫌味だったんですが、いささか乱暴な表現ながら反射的に思いました。死にたいと言っている社会に対し、延命のみを考えるのは偽善ではないかと。 もしも生きていることをいとしみ、自分が生まれてきたことを素直に祝福できるなら、その人はいずれ必ず新たな生命をことほぐことができると思います。生まれてきてよかった、この子が生まれてきたことも、きっといい結果になるだろうと考えられるでしょうから。そう信じられなければ子供を生みたいとは思えません。 また、逆に生きていることも生まれたことも地獄としか思えなかったら、もしも何かのはずみに子供を授かってしまったらどうでしょうか。凶事以外の何ととらえられるでしょうか。生まれてきてほしかったら、まずもって今生きている人に言わなければならないと思います。生きろ、明日はいい日だ、と。そこを外して子供をだけ望んでも、結果は今と変わらないと思います。 魂の基調に「生きろ」という気持ちがある人は、自分に向かっても他人に向かってもそれを使います。逆もまた、同じことです。いつでもそうとは申しません。あるときには生に向かって振れ、別の時には死に惹かれる。そういう二面性が人間の多様性をつくっています。ただ、時代や場所には気分があり、不思議にも一方向に向かって傾斜していくときがあります。それが現象となったとき、社会としてのひずみが発生するんではないでしょうか。 また少し違う話をします。罪を犯す人を分類する一般的なカテゴリーの中に、理解不可能で区切られる一角があります。ここでは殺人に限りますが、すでに動機や事情ではなく、その人がその人であることが殺意を意味する、彼岸の住人であるとされる人々です。フィクションの世界になると、これはさらにはっきりします。ハリウッド史上に燦然と輝く食人鬼ハンニバル・レクター博士、日本で言うなら浦沢直樹描くところの“名前の無いモンスター”ヨハン・リーベルトがそれに当たるでしょうか。 彼らの共通点は、人間としての扱いを離れていることです。私は勝手に「人鬼」と呼んでいますが、少しも人間としての限界の範囲を超えていないのに、常ならざる力を持った人、ごく普通の人間とは全然違う取り扱いを受けるべき人としてとらえられます。少なくとも、見る人の意識の中では。 悪魔、あるいは鬼となることで、彼らは社会一般の倫理観念、地続きの感覚で理解されることをまぬがれますが、そのときに逆方向の疑問が芽生えてきます。何故、彼らは悪魔となったのか。人が悪魔になる境界とは何か。見えないその壁があまりに高く思えるために、人鬼は時にロマンチックな扱いを受け、闇のヒーローとしての魅力をさえまとうことがあります。 色々な意見があるでしょう。しかし、フィクション、ファンタジーの世界を離れて考えれば、私にはそれはあまりにも簡単な手続きのように思えます……。
ただ、「死ね」と思う心さえあれば。
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