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ムシトリ日記
加藤夏来
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2005年04月27日(水)
随想

たまに読むと面白い本というのがあります。

条件その一。脈絡がないこと。ちゃんとしたストーリーがあるとつい読みふけってしまうので、ぱらぱらめくるのに向いていません。条件その2。すぐには意味が分からないこと。読んで意味が通ってしまうと、何か考える時間がないです。そしてその3。意味がまったく分からなくはないこと。これの説明は要りませんね。原書のコーランとか持ってこられたって、壁に張り巡らせて客をビビらせるくらいの使い道しかありません。

知り合いの中でことさらに頭のおかしい(誉め言葉)お姉さんに教わったのは、『神曲サーフィン』というものでした。神曲って、あのダンテの神曲です。文庫本とかを手元に置いておいて、暇になったらぱらぱらめくって勝手な想像に遊ぶんだそうです。チャレンジしてはみたものの、私にはディープ過ぎて向いてませんでした。そもそもこの人らはどこで何をしているのだ。

というわけで、ネタ拾いを兼ねて聖書サーフィンくらいに留めております。家からかっぱいできた30年もののやつがあるので、遠慮なくそこらに放り出しておけます。



本日はサーフィンから、カインとアベルの話。



有名な話なので説明するまでもありませんが、カインとアベルはアダムとイブの息子たちです。カインが兄で農夫。アベルが弟で羊飼い。二人はそれぞれ収穫を得たとき、その中から神に捧げものをしますが、何故か兄の収穫は顧みられることがなく、弟だけが受け入れられます。

これを怒ったカインは、弟を野原に連れ出して殺してしまいます。人類史上、最初の殺人と、殺人犯です。

『何ということをしたのか。お前の弟の血が、土の中からわたしに向かって叫んでいる』(創世記四章十節)

ここで注、カインは弟を殺したところで、得られたものは何もありません。ただひたすら怒りに任せて、相手が憎いというだけの理由で、言わば純粋な殺意によって引き起こされた殺人です。また、その原因となった捧げものの件ですが、色々な推測は為されているものの、この二人の扱いに差が出た理由は記述されていません。文字通り、神の気まぐれな手というやつです。

人知の及ばない気まぐれな運命によって、一人は祝福され、もう一人は顧みられることなく見捨てられることになるわけです。

同じ親から生まれ、同じように育ち、気まぐれに運命から見捨てられたとき、カインの心に去来したものは何だったのでしょうか。

聖書研究のお約束として、カインは何かやらかしたので(そもそも遊牧民と農耕民族の差で何とかとか、この辺は諸説あり)可愛がってもらえなかった、という方向に持って行きたがるむきがあるようですが、そんなこと書いてないので私は知りません。二人ともが捧げものをし、つまりは受け入れてほしいと願い、一人は選ばれてもう一人は選ばれなかった。ここがこの話の眼目ではないかと思います。

要は『何故?』と問いかけずにおれない、人間というものの心のあり方。

世に溢れているストーリーの中には、人にとってやりきれないと感じられるものが多数あり、しかも不愉快であるはずのそれらは結構な需要をもって人々に受け入れられております。それらのストーリーがもたらす快感とはただ一つ、「けりがつけられていること」であると言います。何かが起こって、それが起こりっぱなしのまま放っておかれているという状態が、人間にとってはたまらないことなんですね。

例えば犯罪があったとき、人はそれこそ必死になって犯人を追い求めます。それと同時に、『どうしてそれが起こったのか』を追い求めます。現実をきれいに落ち着かせるために、証明されてもいない動機を捏造してまで流布しようとする、というような行為も頻繁に見られます。『何故』から逃げられる人間は、人間である限り存在しません。

『何故、自分は見捨てられたのか』という、最も人間らしい問いが、カインの主要な動機だったのではないかと私は見ます。自分が意味もなく、答もなく、ただ単に捨てられた、という状況を否定するためには、その運命の片割れである弟を手にかけるくらいしか、方法が無かったのではないでしょうか。

とすると、土の中から叫んでいたのは弟アベルの血ではないでしょう。運命のもたらす暴行に対して、『何故だ』と叫べなかった、カイン自身の心から噴出した血だと思われます。


そんな感じの、本日のサーフィンでした。



ベリンカさんブクマありがとうございました……!!(実に脈絡が無い)