更新となります……どれだけ死んでたやら。
木の芽時とはよく言ったもので、毎年この時期になると何やらかにやら慌しくなって参ります。ほとんどは物理的な変化が原因ですが、大勢が慌しくしているとそうでない人にも何となく気分が移ってくるもので、この時期に去っていく人や、この時期に訪れるものは、枚挙にいとまがありません。
本日は近場の河川敷で花を見ながら歩く日でした。ちなみに昨日は千鳥ヶ淵と靖国神社の日でした。神社よりも周りの露店にたくさん喜捨して参りましたが……えー……末代までとは申しませんが、二代くらいなら祟ろうかな。(何かくだらないことがあったようです)
出張前は、東京の桜を見逃すのがとても残念でなりませんでした。でも帰ってきて最初にもらった代休では、これ以上望み得ないほどの満開の桜を見ることができました。山ごもり自体の結果は、言っちゃ難ですがほぼ最低です。それでも本当に最低でなかったのは、ケガ一つ無く帰ってきて、千鳥ヶ淵を見ることができたということがあるからでしょう。
それともう一つよいと思えることは、ほぼ最低な状況でも最低な気分になっていない自分を見つけることができたという点です。
学生時代に習った聖書の言葉は、大半がただの決まり文句でしたが、この年になって再発見したような気持ちになる言葉もたくさんあります。その中の一つ。 『何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい、何を着ようかと自分の体のことで思いわずらうな。…野の花がどうして育っているか、考えてみるがよい。…栄華を極めたときのソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾っていなかった。きょうは生えていて、明日は炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか』 結果がどうなるかは保証の限りではありませんが、少なくともこの中に書いてあることの一つは、今日私が見てきた通りです。どんな恵まれた人でも、明日散る桜の花以上に美しく着飾った者など一人もいませんでした。
同じものを同じ人間が読んだところで、感想が同じになるとは限りません。いわんや、別の人間においてはどれほど違う結果が出ることか。永遠に、秘密というものはそれを語る人間が少ないからではなく、聞き取れる耳が不足しているからこそ、埋もれたままでいるということでしょうか。
相変わらず締めの甘い文で申し訳ありません。ここで言ったところで本当に正しく伝わるかは分かりませんが、忘れてしまわないうちに断言しておきます。
色々とご心配おかけしました。 大丈夫、私は元気です。
拍手レス9日> えらい気に入っていただけまして、ひたすら恐縮です。(だらだら)マルクク祭様からのご訪問ということは、DQ8作品を読みに来られたんでしょうに、肩透かし食わせて大変申し訳ありません。ご覧の通り暗めのアレな話が主流のサイトですが、このノリが気に入っていただけたら、また読みにきていただけると嬉しいです。大変励みになりました。ご訪問ありがとうございます!
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