作家研究の発表用にここを使ったのは果たして手抜きなのか活用なのか、っていうか作家なんて研究しなかったけど。 本当は任意の作家について、その生い立ちから社会背景から、どのような経過を辿って作品ができたのかについて考察するのが趣旨だったらしいのだけど、普段なにかしらの作品を見るとき、作家が誰であろうとあんまり気にしないもんだから、今回の課題は困った困った。普段気にしてないもんだから当然作家の名前も知らないし作品と作家も一致しない。
知ってるに越したことはないだろうけど、知らないからこそ付加情報ゼロの状態で作品を鑑賞できるというのはあるかもしれない。けれどもそれを判断する自分の価値観ほどあやしいものはないものだ。それまでに形成された価値観が一体どれだけのものごとを元に形成されたというのか…。氷山の一角どころじゃない。やはり知っとけって話なわけだけど… 結局作家についてはほとんど調べずに、印象に残ったインスタレーション作品について紹介した。逃げというより、もはやフライパンでテニスに挑んだようなもんである。しかし意外にもフライパンでテニスをしてもボールは返ってくる。あとはまた打ち返せばよいのだ。難儀であれど。
portable[k]ommunityのようにユニットで活動するという形態は、純粋な作家活動とは趣が変わってくるようだ。ユニットで陶芸とか、ユニットで絵画なんて聞いたことがない。本名に代わるユニット名での活動形態はportable[k]ommunity然り、明和電気然り、0100101110101101.org然り、こうしたメディアアート界ではけっこう見かける。
この現象は(今日の授業中に気づいたのだけど)音楽にもいえるような気がした。例えばソロで活動するピアニストとかソロの弾き語り系の人なんかは大抵本名勝負なのに対して、打ち込みだのDTMだのやるような人はユニット名がついてることが多かったりする。照れ隠しか?まぁ普通に本名より覚えやすいってのもあるだろうけど。
メディアアート界において言えば、ユニット名をつけることで、バンド的な感覚を内包しつつ幅広い活動ができたりするのかもしれない。というよりも、メディアアートはもともと多くのジャンルをまたいでるが故に自ずと活動の幅が広くなることが多いのかもしれない。卵が先か鶏が先かみたいな話になってきたけどそういうようなことなのかもしれない。素っ裸の個人よりもユニットという枠があったほうが汎用性は高まるということでもあるかもしれない。
"かもしれない"連発。そう、推測の域を出ない。 けれども世界は推測に満ちている かもしれない。
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