英語で写真はphotographのほかにpictureという言い方がある。
pictureには絵も含まれる。
っていうか私の中ではニュアンス的にピクチャーは額に入れられた絵や写真
っていうふうに捉えていた。
日本語では「写真」「絵」って別れてる
のになんでこれが同じひとつの言葉で表せちゃうんだろう、
英語はおおざっぱだなぁ、無理あるでしょw
と思っていた。
確かに額に入れられてしまえば写真も絵も似たようなものとして思えなくもないか、
しょうがねぇ、許してやろう、ってな感じで
ピクチャーという言葉を認めはするが避けてきた。
だが、しかし、でも、けれども
額に入れられてなくとも、写真と絵には共通するもんがあるなぁ!
強ちpictureが絵も写真も表すことは間違ってないんだなぁ!と、
こないだジャクソン・ポロックの絵画について調べていて、そう思った。
鍵は意識と無意識。
無意識を意識すること。
その姿勢は絵画にも写真にもあてはまると思った。
ポロックは絵画を制作するときに、キャンバスを床に置き、
上から筆や棒などを使って絵の具を滴らせ、その色や厚みなどによって
それまでの手描きの絵画とはまったく異なる世界を生み出す、
ボアリングという技法を生み出した人物である。
この技法は、意識的に細かい調節が可能な筆とは違って、
無意識の状態を直接図像へと反映することができるんじゃないか、ってことで
無意識が生み出す芸術の意味をポロックは絵画を通して考えていたようだ。
「このやり方だと、絵のまわりを歩き、四方から制作し、
文字通り絵のなかにいることができるのだから、
わたしは絵をより身近に、絵の一部のように感じられる。(後略)」(ジャクソン・ポロック)
写真においても意識というものは写真を成立させる要素のひとつでありながらも
その意識によって解釈の幅を限定させてしまうものでもあると思うから、
意識をなるべく排除しようとしたポロックの姿勢には共感した。
写真というものは意識の塊である。と同時に無意識をも内包する。
例えば人物を撮った写真があるとする。そこにはその人物を写そうという意識がまさにある。
でもよく見ると撮るときには気づいていない関係のないモノがまわりに写りこんでいたりする。
無意識が写っている。
そういう無意識を徹底的に排除したのが商業写真であったりするのだけど、
大抵の場合、このように写真には意識と無意識が並存している。
そこで意識を取り除くと写真はどうなるのか。写真は成立するのか。
意識不明の状態で写真は撮れないけれど、余計な意思をできるだけ排除することはできる。
こうしてウェブ上で写真を見せるという行為からして、
取捨選択という意思があることは否定できないが、それでもなるべく意思のないものを、
無意識が多く写っているものを選び取ることはできる。
無意識を意識して意思とするという一見相反する行為ではあるけれど、
やかましいほどの意思が写りこんでいるもの、意思を写しているものを
なんの疑いもなく選び取るよりはましな気がする。
うん、なんかわけわかんなくなってきた。
彼は自分が目指しているのは「イーゼルと壁画の中間」に位置する作品であるとも言っていたようで
絵画があるべき姿、床に対して垂直なのか水平なのかといったことにも関係してくる。
今までなんの疑いもなしに受け入れていた概念を、まずその概念があること自体に気づいて、
疑うことができて、さらにそれを壊すことができるというのは並大抵のことじゃない。
でもそういう姿勢は絵画においても写真においても、さらにあらゆることにとっても、
大事なことなんじゃないかと思ったのだ。
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