index|
back |
next
----------2005年12月24日(土) 便宜上、
■クリスマスにひとりでいてはいけない、そうだ。教会に来ればイエスの誕生を祝う「仲間」と一緒ですよ、とでもいいたそうな司教もしくは司祭の説教を聞きながら誰に此処にいて欲しいのか、を考えてみたけれど分からない。
■私の神様は私だけの神様であってあなたの神様とは違う。私が描く神様はあなたの神様と同じように十字架にかけられ頭を垂れているけれど、あなたと同じ言葉で祈り群れることにさほど重要性があるとは感じられない。
■それは傲慢でも涜神でもなんでもなく、
■と書いてみて、教会が要請しているのはまさしくその同じ言葉で祈ること群れること、「分かち合う」ことで繋がりを見出すこと共同体を作り出すこと、であるのだから私はやはりその「傲慢」と「涜神」の故、とこしえに外部にとどまるしかないのだ、ということに気づく。同じ、あるいはより深い渇望を抱えていたとしても。洗礼の祝福を受ける人々にこらえがたい羨望の念を抱いたとしても。
■私は私の言葉で祈る。イエス、という名ですらないかもしれない神様に。
■便宜上、形式が必要なだけ。今日は、神様の、生まれた日。
|