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----------2005年04月28日(木) いつ書いたのか知らないけど
「総体としての世界に対する激しい嫌悪と、その中に生き、存在することへの絶望が、あらゆるグノーシス主義の基本をなしているという意味においては、グノーシス主義は明らかにある特殊な心理学的、あるいは精神病理学的カテゴリーに属すると考えることもできるだろう。」(彌永信美「閉塞世界とグノーシスの<光>」/「現代思想92年2月号」所収/青土社)
できる。
以下、いつ書いたのか知らないけどフロッピーに残ってた自分のメモ。
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サルトルの嘔吐がたとえばメニエル氏病の発作に過ぎなかったなら、実存主義のめまいという大仰な言葉はすべてがいわゆる「神経症」に還元されてしまうのか。カミュの乾いた文体は離人症の産物か。ハイデガーのダーザインは分裂病患者の幻覚か。カトリックの告解が精神分析のカウンセリングとかわることがないとまでいうのなら20世紀は完全に精神の病理に犯された時代である。この流れにしたがってグノーシス主義を定義すればあの呪詛にも似たつぶやきは鬱病患者の世界否定ということにもなりかねない。宗教的な世界否定と病理学的なそれとの間に明確な線引きをすることが可能なのか。
たとえばマルキオン。彼の「福音」が果たして現世的な幸福をもたらすか。彼の幸福は完全に彼岸の世界に設定されている。この地上に善と関わりのあるものは何一つ存在していない。それは鬱病患者の絶望に似ている。彼の救済はどこからやってくるか。この此岸を遥かに越えた世界に存在する、人間とは完全に切り離された「神」から「養子縁組」の形をとって文字通り「降臨」する。しかしそれはこの世における幸福ではない。「認識」という名のさめた救い、疎外を受け入れる術としての「認識」が与えられるだけである。根本的な問題は解決されない。ここであえて精神分析の言葉を使うとすれば抑鬱状態の引き延ばしである。
ヴァレンティノス派の場合。彼の場合はその神話論の全くのはじまりから精神分析的である。ラカンにおける鏡像段階の形成にあたるものがヴァレンティノスにおいては「世界の誕生」として扱われている。絶対的一者であったはずの神は湖面に映った自らの鏡像に心を奪われ、同じものを生み出そうとする。これが原初の分裂である。そして分裂は繰り返され、ソフィアに至ってついに地上界へ転落するのである。彼女の地上への転落は、あまりに隔たった父親像への「代償行為」と銘打つことができよう。
最も一般的な解釈をすれば、グノーシス主義は不完全なユング主義でもある。下意識の発見=本来的自己への目覚め、無意識の統合=グノーシスというあまりに簡略な図式を許していただけるなら、両者の述べていることに大きな相違点は存在しない。精神分析は宗教であるといわれる。なぜなら古来、人間の心を救っていやしてきたのは宗教であったからだ。人間の心に必ず存在する空虚な中心、その中心の座に誰が座るのか。キリストか、アラーか、それともフロイトかマルクスかフーコーかドゥルーズか。そんな固有名詞はどうでもかまわない。がしかし、とにかくこの座には誰かが、何かが座らなければならないのである。
「中心の喪失」を書いたハンス・ゼードルマイヤーは、神が不在になったその場を埋めることこそが急務であると告げた。中心の不在はすべてを瓦解させ、価値観を混乱させ、また「人間」という概念の崩壊にさえつながるであろうと。それは正しかった。かぎりなく正しかった。相対主義の絶頂期、たしかに人間という概念じたいが粉々に砕け散った。超越的存在の不在に耐えられるほど人間は成長もしていなければ円環的時間を生きるような緩慢さも持ち合わせていないのである。
再び、超越論の復活を。絶対的権威と絶対的服従の復活を。フォイエルバッハのいうように、その超越が人間の欲望の投影であったとしてもかまわないではないか。所詮人間が生みだした神であっても、人の中心には必ず空白の場所がある以上、それを埋めるために神という名の中心を捏造したところでどんな罪が待ちかまえているといえよう? 偶像崇拝? 偶像が人の命を救うならばそれはすでに偶像ではない。グノーシスの「かくれいます神」が実在の可能性さえ危うい「想像上の」産物であるとしても、ヴェイユのいう通り、「善がこの世に存在しないことは分かり切っている。ならば、存在しないもののためにこの世のすべてを投げ捨ててしまうことになんのためらいがあろうか」。
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バリバリウヨク?
「宗教的な世界否定と病理学的なそれとの間に明確な線引きをすることが可能なのか。」
多分、不可能。
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