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----------2005年01月28日(金) そこにあるべきもの

「幸福に対しても不幸に対しても、また絶対的権力とかまったくの無力に対しても無関心であること、おそらく至高性と結ばれているようなこういう無関心は、なにかしら原始的なところに発しているということは間違いないだろう。」(ジョルジュ・バタイユ「至高性―呪われた部分 普遍経済論の試み」/人文書院)

違うんじゃないの、原始的なものっていうのは決して無関心ではないと思うよ、だって無関心であるということはそこに欲望が欠如しているということであって、欲望の欠如は生存の危機につながる、原始的なものはただ無我夢中で生きようと、ただ生きようとする、無関心であることは原始的な状態からはもっとも遠いところにある。無関心は退廃としか結ばれていない。

いつか大学院の指導教官が「グノーシス主義は何も生み出さないでしょう」と言ったことがある、彼が私に授けてくれた唯一の指導である。だからグノーシス主義者は決して「文学者」にはなりえないはずだ、と彼は言った、多分それは正しい、ウィリアム・ギブソンの「ニューロマンサー」を「新ロマン主義者ですか」と言い放った、落語をこよなく愛し、ノスタルジアを研究するあの好々爺はもしかすると文学の本質をメガネの奥の小さな目で捉えているとてつもなく鋭い「文学研究者」であるのかもしれない。

そこには原始的な欲望が渦巻いていなければならない、過剰で、統御不能で、予測不能な欲望が渦巻いていなければ、「なにものか」が形を持って生み出されることは決してないのだ。

至高なものは何も生み出さない、至高な無関心だって? それは本当に呪われている、それこそが呪われている。