index|
back |
next
----------2005年01月22日(土) 「一般経済学」批判
「言説とは、それが意味の表出である限り、《至高性》の喪失そのものである。」(ジャック・デリダ<限定経済学から一般経済学へ>「エクリチュールと差異(下)」/法政大学出版局)
実はおなかの具合がかなり悪くて、今日は朝から差し込むような痛みがひどかったので会社を休んだのだった。そうしたらざまみろざまみろざまあみろ、と気分がかなりよくなって、ここんとこ数日痺れたままだった右腕も快調で、予定よりもずっとずっと滞っているメモ類の打ち込み作業もさくさくと進んだのだった、単なる子供である。
で今日は大学院のときに作ったレジュメを見直していてこんなものを発見したんだけど全然分からない。2000.1.20の日付があるから5年前のとにかくこの頃これを発表してHくんとかI田センセイの厳しい批評に晒されたはずなんだけどぜーんぜん覚えてない。んもう私にとってデリダは何の意味も表出していない、よってそれは非常な《至高性》を保っている、ってこと、か?
・・・限定経済学っていうのは乱暴に言えばしみったれた自己保全を基調にして常に「守り」に入るやり方、一般経済学っていうのはもうとにかく乱暴に言えば浪費しろ、ってこと、消尽しろ、ってこと、ポトラッチを基調に据えて豪快に攻めろ、ってこと、つーか要するにいわゆるポストモダンの時代、哲学とか思想はそんな夢みたいな話に浮かされて何千万枚、何億万枚という紙片を無駄に費やしてた、ってこと、私が作ったレジュメなんぞはその周辺部分にあって無駄の最たるものでどうしようもないからちゃんとメモサイズに切って裏紙を利用しなくちゃならない、ってこと。これこそが言葉の本来の意味での「一般的」経済学だ、どうだ参ったか。
|