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----------2005年01月10日(月) 疲労と懈怠
「「倦怠」の不気味さは二重である。第一にそこは恐ろしいほどに耐え難い場所であること、そしてそれゆえに人は理不尽な幻想までをも動員して「別の残酷な夢」、つまりは「倦怠の終り」の光景を要求するにいたる可能性があるということである。「倦怠」に倦み果てた心身は突如自滅的なカタストロフ−カタルシスを夢見始めてしまう危険があるのだ。」(丹生谷貴志「終りなき「倦怠」」<現代思想の冒険家たち 月報第6号所収>/講談社)
時間を殺せば「倦怠」を殺せると思っていたけれどそれは大きな過ちで何処へ逃げても何をしてもそれは通低音として常に地鳴りを伴って背後から迫ってくる。「倦怠」に「疲労」が加わった分だけ、「別の残酷な夢」はより現実味を帯びてありえないカタストロフを待ち望む。
すべての所作は所詮「倦怠」を耐え忍ぶための方策に過ぎない。疲れているよりは疲れていないほうがいい、けれど赤貧を洗うよりは「生活」を保てるほうがいい、バランスを欠いているこの状態は以前にもまして危険である。
・・・「城砦」に取り囲まれた造成地の小さな庭で「家事」に倦み果てることを選ぶべきだったのかもしれない。疲労にかこつけて私は何かを懈怠している。
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