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----------2005年01月07日(金) まぶたを閉じている間だけ

「わたしは、おのれのなりたいとねがうものに、心のなかで、おのれを犠牲に捧げる!」(ポール・ヴァレリー「テスト氏」/福武文庫)

という一文にはカッコがつけてあったりするのだけれどその直前には「もしこれが、君以外の誰かにもとづいていたとすれば、そのときはこれを否定し、これを知ってしまうことだ」と書かれていることにたった今10年ぶりくらいに気づいた。

もとい、私はもうガクセイではなくましてや研究者などでは毛頭ないのだからどの部分を切り取ってどのように解釈しようがそれは私の勝手、別に私の「おのれがなりたいとねがうもの」が私以外の誰かにもとづくものであったとしたってなんら問題はないのだけれど私は独我論の罠からいまだに抜け出せないのであって「彼女」というときそれは必ず「私が解釈した彼女」と但し書きがつけられるのである。

とすれば結局私以外の誰かにもとづいた存在なんてどこにも存在していないことになる。「あなた」は「私の知っているあなた」でしかなく、私に見せないその側面を私は「あなた」とは呼ばない。名前と、それに付随する2、3の事柄、時にそこには匂いが加わり目線が加わり呼吸の音が加わったりするけれど大差はない、それらすべてを解釈する私、というフィルターを通してしかあなたは私に知られることがない。

だから畢竟「彼女」は私がつくりあげたものである、私は私がなりたいと願うすべてのものであるところの「彼女」に私が見た、聞いた、読んだ、知ったすべてのことを注ぎ込む。

現実的なものになんて意味はないのだから私がこうして脳内でひそやかな生活をはじめたとしても、その脳内のひそやかな生活のためにおのれをすべて犠牲に捧げたとしてもムッシューテストに文句を言われる筋合いは一切ない、ってことだ、「彼女」が肉体を欲しさえしなければすべてはうまくいく。

まぶたを閉じている間だけ、「彼女」に会える。だから眠れなくてもいい、虚数空間に意識を投げ出して何処にもない幸福な夢を見よう。

って虚数空間ってなんだ(笑)?

・・・文系の人間って時々こういう言葉に憧れるからなあ・・・。