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2003年08月29日(金)
塀の中の「加害者」と塀の外の「被害者(その遺族・家族)」の間に交流が生まれ、被害者が加害者の減刑を嘆願したり、死刑執行の中止を求めたりするケースが稀にあるらしい。
もしも私が被害者あるいは被害者の遺族(や家族)だったら、そんなことはあり得えない思った。 憎んでも憎みきれない、殺しても殺し足りない相手と交流し、理解し、許すことなどできるわけがないと。
被害者の声としてよく私たちの耳に届くのは 「(加害者は)犯した罪の重さを自覚し、悔いてほしい、謝罪してほしい。」 といった内容の言葉だ。 加害者が自分の罪と向き合ったところで、被害者の傷は癒えるのか、亡くなった人は戻るのか、空しくないか・・・・・そう考えたりした。
しかし・・・・・。
喧嘩相手とのわだかまりを晴らすには、喧嘩相手ととことんぶつかり合うしかないのではないか。 いじめられた人の心の傷を本当に癒せるのは、いじめた人の心からの謝罪の言葉しかないのではないか。
・・・という例と、重大犯罪の加害者と被害者の関係を同じに並べていいのかどうかわからないが、大事な家族を殺された人が、心の傷を癒し、失った大きなものを少しでも取り戻そうとする時、いちばん力になるのは加害者の心からの謝罪なのではないだろうか。そう思えてきた。 被害者は加害者によって癒されるという皮肉な現象だが。
加害者は自分の犯した罪と真っ正面から向き合い、反省し、謝罪する。 その過程にはきっと苦しみが伴うが人として再生するために欠くことの出来ない苦しみだ。 また被害者もポッカリ空いた暗黒の穴を埋め、もう一度生きる希望を見出し歩き出す時、うまく言えないが加害者が苦しみながら再生していく姿、本当に悔いて償う姿こそが力になるのではないか。
だから、被害者は加害者の反省と謝罪を強く望むのだと思う。
悲しいことに、人として再生不可能ではないかと思える人間がたまに現れる。 宅間守被告に反省と謝罪をどんなに求めても、それは叶えられないという感を強くした。 この先ずっと遺族の神経を逆なでし続ける感を強くした。 それならば・・・死刑やむなしか。 私は、考え方が遅れていると思われるかもしれないが、死刑廃止論にはどうしても傾かない。 たまに現れる宅間のような人間をみるにつけ、死刑以外の何があるのか、と思ってしまう。
私は時代遅れの野蛮人?
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