「ぞく」と打って最初に「賊」に変換されるPCってのもちょっと嫌だ(笑) 「一体全体どうして…」のつもりで「いったい」と打つと、「一隊」になります。「道が渋滞している」と打とうとすると、「銃隊」が出てきます。「はこだて」は「箱」館、大阪は大「坂」です。 …前の職場ではよくメモ帳使ったり検索したりしてたから、後任の子は暫く困っただろうなあ(^ ^ゞ 今の職場は自分のPCというものがないし、仕事中や昼休みに個人利用することはできない環境なので(その暇もない)安心(?)ですが。
さて、『学海日録』の続きです。
肝心の圭介に関連した情報はといいますと、大築尚志をはじめ蕃書調所で圭介と一緒だった面々が依田さんを訪問したりされたりしてます。それから依田さんが小栗さんに呼ばれて出向くこともしばしば。留守居役だけあって、陸軍関係より小笠原(長行)、稲葉(正邦)といった閣老からの呼び出しのほうが多かったみたいです。 慶応3年秋頃から、俄かに江戸の各藩の動きが活発化したような印象を受けます。もともと在府の各藩の横の交流は随分あったようなんですが、依田さんの日記を観ると、これまでのような親睦っぽい集りより、親藩の会合の会合やら、兵制・軍制の改革を論じるやら、外様各藩の藩士と会合するやら、「親・譜を問わず」幕府に協力して「大勢を挽回すべき策」を話し合うやらが増えてきます。かなり会津と親しかったみたいですね。 幕府陸軍との関係が出てくるのは、慶応3年末頃から。12月6日に雉子橋警備を命じられた佐倉藩の銃隊が小川町屯所に駐屯しますが、これは3日後に「差支ゆる事ありとて」、雉子橋門外の騎兵屯所に移転します。何だろう、差支えることって。 12月頃、紀州藩を中心に「兵制一致の会」という動きがあったらしくて、依田さんは「仏式伝習の会を作ろう」と呼びかけていて、その関係でしょうか、歩兵奉行や陸軍の人と会ったり陸軍局に行ったりしてるんですが、圭介の名前は出てきません。昇進前だしなあ。 ちなみに依田さんが会った歩兵奉行は「城和泉」と「河野対馬」。『陸軍歴史』によると城さんは慶応3年12月に歩兵頭から昇進した人で、翌4年2月19日に辞職。河野というのは、「伊予」ならいるけどそれかな?(12月末に退任) 彼らが役を退いた後、抜擢されるのがタロさんだったり圭介だったりするわけですね。その他、「陸軍方」として「浅田耕蔵」と「本多敏三郎」、「合原左衛門尉」の名が残ってますが、『陸軍歴史』では確認できませんでした。 12月25日の薩邸焼き討ちには佐倉藩も参加していて、依田さんは嚮導役で同行。翌日の日記に、「きのふ戦地に往来しけふは酒楼に酔を尽す、世の浮沈は今さらなり」と感慨深げでした。 年明け後は、決戦に備えて江戸駐留の佐倉藩兵も増強。13日時点で「只、徳川氏と存亡を共にするのみ」と記載があります。藩主が慶喜再上京の暁には「先鋒やります!」と手を挙げたり、大築さんが「幕府の歩兵を佐倉藩の陣に貸そうか?」と言って寄越したり、佐倉ってわりとあっさり恭順したイメージがあったのでちょっと意外でした。帰府してきた近藤・土方にも会ってます。1月頃の幕府や各藩のドタバタした内情がタイムリーに記録されてるのがなかなか有難い。(「此日、諸閣老、病と布して出仕せず」とか) 藩論が定まったのは、慶喜が恭順を決めたことと、2月11日に天皇親征の号令が出たから、みたいです。で、「じゃあ仲介をしましょう」ということで、依田さんは藩主について2月半ばに上京。そのまま10月まで京都にいます。よって、4月11日の脱走の記載は皆無でした…。orz その後の戊辰戦争関連記述は、京都から帰ってくる時に箱根の戦争の痕跡を見たとか、榎本が開拓を願い出たけど許されなかったとか、江戸(東京)で誰某が捕まったの釈放されたとか、その程度。大鳥の「お」の字も出てこない。こりゃもう調べるだけ無駄かな〜と思い始めた矢先。 明治2年4月14日の項に突然、圭介が登場したからもう吃驚したの何のって。この日、仙台藩士が訪ねてきたんですが、その人に圭介の消息を訊いてるんですよ。 「話の次に大鳥圭介の事を訪ふに、かの人、会津に用いられて石莚の嶮を守り、幕府脱走の人々とともに防戦せしが、八月廿二日僅に一戦に利を失ひて仙台をさして逃れ来れり。石むしろといへるは会国第一の嶮にして、薩・長・垣藩の兵も容易にやぶれがたしと思ひしに、かく破れしかば、一時に若松をぬきしといへり。」 …………や、その、石莚が破れたのは圭介だけの所為じゃないと思うんだけど…。圭介は最初から人数足りないって言ってたんだけど…。(いやいやいや、これは仙台藩士の言葉をそのまま記したに違いない。何せ相手は圭介が弱腰を笑った仙台兵だからな、その逆の酷評もアリだろうさ。) それにしても、今まで丸無視だったのにいきなり消息をわざわざ訊ねるってのが、意味深です。やっぱり圭介の脱走には佐倉藩が関わってたんでしょうか…。 そうそう、木村隆吉さんですが、「箱館方」という肩書きで慶応4年1月26日に依田さん家を訪問したとの記載がありました。この頃に蝦夷から帰ってきたんでしょうか。だとすると、誰かが圭介と引き合わせたはずですよね。大築さんあたりが有力なのかな、やっぱり。
そんなわけで何だかんだと、むしろ疑問が増えたよーな気が…。酒呑んで詩作するとか、圭介と趣味は合いそうなんですけどね(笑) とにかく人名が沢山出てきて、ぽろっと見落とししそうなくらいなので、PCみたいな検索機能が欲しくなります。あと、安政7年〜文久2年と元治1年〜慶応2年の日記が欠落してるので、そこいらへんに例えば圭介の訳書のこととか、フランス式伝習導入のこととか、あったのかもしれません。 オイシイんだか肩透かしなんだか、判断のつきかねる資料です…。
うを、つい長くなっちまいました。いっそ「鳥飯」に上げた方がよかったですね、すみません。
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