心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2019年11月15日(金) 日本人は世界で一番他人に冷たい国民性

テレビのニュースでも取り上げられていた話題で、日本人は見知らぬ他人が困っていても助けない、という話であります。

CAF WORLD GIVING INDEX 10th edition
https://www.cafonline.org/about-us/publications/2019-publications

Charities Aid Foundationはイギリスにある国際的な慈善団体で、世界各国で人々がどれぐらい慈善行為を行っているか調査を行い、それを慈善指数(World Giving Index)として数値化しています。調査を請け負っているのはギャラップという調査会社で、調査の内容は意外にシンプルで、以下の三つの項目のアンケートを行うものです。

あなたは、この一ヶ月の間に、以下の行いをしましたか?

 1.困っている見知らぬ人を助けてあげましたか?
 2.慈善や義援に金銭を寄付しましたか?
 3.どこかの団体のボランティアに時間を使いましたか?

あなたはどうでしょうか? 「この一ヶ月以内に」という条件がついているので、僕はタイミングによっては、三つともノーという返事になることもしばしばありそうです。

この三つの質問を、百以上の国について、各国およそ千件の回答が集めながら、毎年10年間続けたというのだから、大規模な調査です。

そして、気になる結果ですが、日本は

 1.24%(125位で最下位)
 2.23%(64位)
 3.22%(46位)
 総合 23%(107位)

近年日本では大規模な災害が相次ぎ、義援金を送ったり、片付けや人捜しのボランティアに参加する人が増えたと聞きますから、それが2と3の項目が真ん中ぐらいの結果をもたらしたのでしょうか。

しかし、1の項目が世界で最下位なのです。いやいやいやいや・・、日本人は礼儀正しく、自己主張控えめで、人の気持ちを慮り、そして人に親切にするのを美徳とする文化を持っていたのではなかったのか?

私たちのその自己意識は間違っていたのでしょうか?

1の質問では、困っているのが「見知らぬ人(a stranger, or someone you didn't know)」となっているのがポイントです。つまり、日本人は知り合いには親切かも知れないが、見知らぬ人には冷たいというわけです。

ちなみに、総合順位でトップだったのは(なんと!)アメリカで、1の質問でも72%という数字を出しています。

多くの人は、アメリカ人は個人主義的で自己主張が強く、一方で日本人は集団主義的で自分を抑えて生きていると考えています。

そこから、アメリカ人は個人主義的だから、人のやることに余計な口も挟まないけれど、こちらが困っていても助けてくれない(冷たい)のじゃないか、とか・・・日本人は集団主義的だから、人のことにとやかくうるさいけれど、困っているときには助けてくれるのだ・・・という推論を組み立てることも可能だし、実際そう信じている人も多いみたいです。

でも、それって本当でしょうか?

北海道大学教授だった社会心理学者の山岸俊男という人が、いろいろな心理学的実験を行い、日本人が実は個人主義的(というか自己中心)だということを示しています。その詳しい中身については『信頼の構造』など彼の著書をあたってもらうことにして、日本人が個人主義だということを受け入れて考えると、「日本人は親切」という自己意識と、現実の数字のギャップが見えてきます。

困っている人が自分の知り合いだったら、冷たくしてしまうと、後でその人にこちらの悪い評判を流されかねません(しっぺ返しを受けないように親切にする)。しかし、困っているのが見知らぬ人で、見捨てたところで自分に不利益がない(あるいは知り合い相手でも、自分の選択が相手にバレない)のなら、相手を助けないという選択をする(確率が高い)、というわけです。

つまり、日本人は根本的には自分勝手なのだけれど、集団の圧力や社会的証明の圧力によって、望ましいとされる行いを選んでいるに過ぎないわけです。実際に困っている人がいても「あれは自己責任だから助けなくて良い」という論調が出てきがちなのは、そのあたりに理由があるのかもしれませんね。

僕らが「自分たちはそこそこ親切な人間なのだ」と思っていれば、これ以上親切な人間になろうとはしないでしょう。でも、世界一不親切な国民性なのだという数字を受け入れれば、もうちょっと見知らぬ人に親切にしてみようか、という変化が産む余地ができます。

高い自己評価というのは役に立たない、という例の一つです。

さて、FC2ブログとえんぴつで続けてきたこの「日々雑記」ですが、『心の家路』本体のブログに移行することにしました。移行先はこちら(https://ieji.org/category/notes)です。

『心の家路』本体
https://ieji.org/

今後とも『心の家路』をよろしくお願いします。


2018年09月20日(木) 嫌われ役を引き受ける

いま僕は埼玉に住んで、東京の職場に通勤しています。長野からこちらに引っ越してきて5年ちかくになりました。こちらに来て、「将来は依存症の人を手助けする仕事をしたい」と言う人たちと出会うようになりました。人には職業選択の自由がありますから、それがその人の意志ならば、周囲がとやかく言う必要はないとは思います。ただ、一般のAAメンバーの立場から見れば、例えば依存症の回復施設での仕事は「たいへんな仕事」であり、給料に魅力があるわけではなく、積極的に選びたい仕事ではない、というのが正直なところではないでしょうか。

依存症者の回復を援助する仕事なんかしたくない、というのが健康な人の考え方でしょう。ですから、あえてその仕事をしたいと思う人は、どこか病んだ部分を抱えている、というのが僕の見方です。援助の仕事をしたければ、なにもその対象を依存症者に限らなくても良いと思うからです。

話は変わって、どんな人が援助職という仕事に向いているか、という質問を受けることがあります。僕にそんなことを聞かれても、的を射た答えができる自信はありません。ただ、周囲を見渡していれば分かることもあります。

例えば、体力はあったほうが良いし、メンタルも強いほうが良い、頭の良さは常にアドバンテージになるし、美人・イケメンは何かとお得だし、育ちの良さは万人ウケします。そうしたところは、他の職業と何ら変わるところはありません。だから、他の職業だと自分は競争に不利だから、援助の仕事ならイケてる自分を実現できるかもしれない・・・などという動機で選ぶと、「こんなはずじゃなかった」という不満の多い職業生活を送ることになるでしょう。

むしろ、自分が狂っていることは十分分かった上で、それでも「ただやりたいからやる」という単純な動機の人のほうが強く、また満足感も強いと思うのです。

逆に、明らかに向いていないタイプも見受けます。それは「悪役になれない人」です。本当に助ける相手のことを思うならば、あえて冷たい態度を取ったり、憎まれるようなことを言ったりしなければならないこともあります。ハードな直面化は援助関係の途絶を招くので嫌われ、良好な関係の維持が好まれるご時世になってきたとはいえ、やっぱり直面化が必要な時もありますから。

人に感謝されることがモチベーションだという人は、悪役・嫌われ役・憎まれを引き受けることを、意識的にも無意識的にも避けます。人を助けることには不向きな人としか言いようがありません。

そもそも、支援の現場ばかりでなく、人の集団を目的に向かって動かしていくときには、必ず嫌われ者の役を引き受ける人がその中に必要です。集団のために奉仕しているのに皆に嫌われるのは割に合わない、と考える人は、自分で思っているより利己的な性格をしているわけです。

もちろん、人に嫌われることに何の痛痒も感じない、というのは何らかのパーソナリティ障害じゃないかと思いますし、かつては感じていたけれども今ではもう慣れっこ、というのも困ったものです。やはり、そこには何らかの葛藤が残っているのが健全なんじゃないかと思います。


2018年08月24日(金) 仲間没する

 「神に定められた役割を果たすために、自分たちはこの世に生きているのだ」(p.99)
 We are in the world to play the role He assigns.

すでに一ヶ月すぎてしまいましたが、7月21日の土曜日に、バーブさんが亡くなったという知らせを受けました。お会いするたびに衰えが目立っていたので、ついにこの日が来てしまった、という淋しい気持ちを味わいました。

最後にお目にかかったのは、施設の40周年記念行事の夕食で、他の仲間と一緒にお弁当を食べながら話をした時でした。「もうこれで思い残すことはない」とおっしゃったので、そう言わずに50周年までと言ったのですが、それから3週間後に訃報を受け取ることになりました。

有名な、という形容詞は、無名の人間の集まりにはふさわしくないのでしょう。その代わりに「よく知られた(well known)」という言葉を使うようですが、彼こそまさに「よく知られた」人物でした。横浜でのAA日本40周年紀年行事でも、夜のスピーカーをされてました。施設でもAAでも、回復のアイコンというべき存在でした。

だが彼自身がそうした象徴になろうと望んでなったのかと問えば、答えは明確にノーでしょう。彼自身の言動からそれは明らかですし、そもそも象徴とはなりたくてなれるものじゃありませんから。

バーブというニックネームの由来を聞いたことがあります。日本のAAの始まりの頃はメンバー数が少なく、英語グループの人たちが来てくれて一緒にミーティングをしていたのだそうです。(通訳はミニー神父やピーター神父がしていた)。英語圏の人たちは、お互いをファーストネームで呼びますが、それをかっこいいと思った初期の日本人AAメンバーたちは、自分に外国人ぽいファーストネームを付け、それを名乗るようにしたんだそうです。それが、日本のAAメンバーが奇妙なニックネームを使う始まりだったのだとか。

彼は自分にBobというファーストネームを付け、それを英語読みするとバーブと聞こえたので、そう名乗りました。「だから俺は本当はボブなんだよ」と、そんな初期のエピソードを聞かせてくれる人ももうこの世にいないわけです。

僕は彼とは縁遠く、なかなか近づきになれませんでしたが、晩年の数年は定期的に話をする機会を得ました。等身大の彼は、当然のことながらただの一人のアルコホーリクにすぎません。だが、同時に彼は偉大な人物でもあります。では、何が彼を偉大たらしめたのか。

彼は、バーブ、あるいは本名から取って「ヤマシン」と呼ばれました。誰かが「ヤマシンという役柄は彼にしかできない」と言っていました。まさにその通り。先ほども述べたように、回復の象徴という役割は、自ら望んでなれるものでなく、(自分の意志とは関係なく)神によって選ばれるものです。彼は40年以上かけて、バーブ(あるいはヤマシン)という役割を覚悟を持って果たしきりました。だからこそ、40周年行事で「盆と正月がいっぺんに来たみてえだな」と満ち足りた顔をされていたのでしょう。

もうちょっと僕らのところにも来てくださいよ、とお願いしたら、「お前のところは敷居が高くてな、苦手なんだよ」と真顔で言われました。でもまあ、彼がずっと応援し続けてくれなければ、ビッグブックの12ステップはここまで広がりはしなかったはずです。僕にとってもたいへんな恩人であるし、昨年AAのラウンドアップでビッグブックを使ったビギナーズミーティングをやったとき、来てくださったのは、たいへん良い思い出です。

「どんどん新しいことをやっていかなくちゃならないんだ!」という言葉は心に刻んでいます。

彼みたいになれると思わないし、なりたいとも思いません。僕は、僕に課された役割を果たしていけば良いのだと思っています。

葬儀は家族葬で済んでいるそうですが、施設主催でお別れの会が下記のように行われます。参列者による献花と、数名のお話が予定されていると聞いています。

日時: 平成30年8月25日(土)13:30〜15:30(開場13:20)
場所: 滝野川西ふれあい館(東京都北区滝野川6−21−5) 6階 第1ホール
交通: JR埼京線「板橋駅」西口下車徒歩10分
    都営三田線「西巣鴨駅」下車徒歩5分
問い合わせ:みのわマック TEL:03-5974-5091


2017年05月17日(水) 12ステップで求められる正直さとは

 「無くて七癖」という言葉があるように、人間は誰でもたくさんのクセを持っているものです。文章を書くことにも、その人のクセがあらわれます。僕の文章にもきっと多くのクセがあることでしょう。そして、ビッグブックを書いたビル・Wの文章にもクセがあります。

 その一つは、同じ言葉を繰り返して使わず、別の言葉で言い換えることです。例えば12のステップのステップ5には「過ち」という言葉があり、ステップ6には「欠点」、ステップ7には「短所」という言葉があります。これはすべて同じことを指して使われています。以前、某所で欠点と短所の違いについての議論が盛り上がったことがありましたが、今から思えば虚しい議論だったことが分かります。

 さて、回復するには「正直さ」が必要なのだと言います。ビッグブックにも「正直さ」が必要だと書かれています。だから「ミーティングで自分のことを正直に話しなさい」とアドバイスするスポンサーもいるでしょう。「あいつは正直でない」という非難めいた言葉も聞きます。

 ですが、ここで言われている正直さは、他者に対する正直さです。ビッグブックで正直という言葉が出てくるときは、たいていが「自分自身に対する正直さ」を指しています。

 この「自分に正直」という言葉は、日本語として判じ物のように意味不明です。「自分に正直になったら、飲みたい私は酒を飲んじゃいますよ」という笑えないジョークを言われても、どう反応したら良いか困ってしまいます。

 ビルはもちろん「自分に正直」という言葉も他の言葉に言い換えています。「自分の問題に正直に直面することができれば・・回復できる」としています。たしかに、12ステップは一つひとつが自分の何らかの問題に直面するように求めています。

 「自分に正直」とはどう言う意味かと尋ねられ、ビルのこの文章をしめすと、たいてい「ああ、なるほど」と納得してもらえます。ですが、自分が問題を抱えていると認めるのは、難しいことであるし、嫌なことでもあります。

 『米国アディクション列伝』を書いたホワイトは、その著書の中で「AAプログラムは、人間がいかに不完全な存在か教えてくれる」と述べています。アルコホーリクばかりでなく、あらゆる人間は不完全な存在なのです。神の完全さに比べれば、人間の優劣なんてドングリの背比べ、五十歩百歩にすぎません。(そのことを理解するために、神という完全なる存在の概念が必要なのかもしれません)。そのように考えれば、自分の問題(不完全さ)を認めることは、より容易になるのではないかと思います。


2017年02月26日(日) 多くの回復を作り出すことの意味

 最近は日々雑記の更新も間遠くなり、「ブログをやっているひいらぎさん」ではなく「ブログをやっていたひいらぎさん」と呼ばれるようになりました。

 僕が東京の依存症回復施設で働くようになったのをご存じの方も多いと思います。「二つの帽子をかぶり分ける」(※)ために、施設のことを取り上げるのは避けますが、支援の仕事は生産性が悪いということをつくづく感じています。平たく言うと、忙しいわりに利益が少ない業種だということですね。雑記の更新頻度が極端に落ちたのは、仕事とAAで時間とエネルギーを使い果たしているからです。それでもこうして雑記を書こうと思ったのはなぜか。

(※ プロとしてアルコホリズムに関わっていたとしても、AAメンバーとしての活動はあくまで非職業的なものであることを明確にすること)

 それは、長野でサラリーマンとして働きながらAAメンバーをやっていた頃と、現在では、地理的な位置、社会的な立場、職業的な違いがあるので、新しい視点から依存症を見ることになった。それについてネットでも発信してみようと考えました。

 とはいえ、変わらないこともあります。僕は相変わらず週に一回AAの会場を開け、10人あまりの参加者と一緒にミーティングをやり、その他に週に二晩ぐらいスポンシーとビッグブックの読み合わせをしたり、棚卸しを聞いたりしています。そして時々日曜日にはイベントにでかけている。そんな日々のなかで考えたことです。本題に入りましょう。

 元コメディアンの田代まさし、元プロ野球選手の清原和博、この二人が薬物問題を抱えていることは多くの人が知っているでしょう。田代氏は薬物依存であることを公けにして施設のスタッフとして活動されている。清原氏は自らを薬物依存とは公けにはしていないようですが、伝えられている情報を総合すれば依存症である可能性は高い。僕は同じ依存症者として、お二人の回復が順調に続くように願っています。

 田代氏の講演を何度か聴かせていただきましたが、人を笑わせて和やかにする才能には感心します。それは彼が前半生で努力して身につけたものなのでしょう。さて、例えば将来、彼がテレビのバラエティ番組にタレントとして出演する可能性はあるでしょうか(氏自身がそれを望むかどうか別として)。あるいは、清原氏は野球選手としてあれだけの実績を残した人ですから、将来どこかのプロ野球球団でコーチや監督を務めることはあり得るでしょうか。今の日本社会ではどちらの可能性もゼロに等しい。せっかくの才能が無駄になるのは残念なことです。

 「心の家路」のサイトを始めた頃、「依存症」をキーワードとしてニュースを検索し、一覧表示するページを作りました。するとアメリカの有名人が自らの依存症を公けにして治療に励むという記事がたくさん表示されました。AAの英語版月刊誌にはAA以外のことを取り上げた記事も毎月載りますが、数年前の記事に政府機関が行った一般の人へのアンケート結果が掲載されていました。そのなかに「アルコールや薬物の依存から回復中の人と友だちになれるか?」という項目があり、実に7割以上の人が「友だちになっても良い」と答えていました。

 アメリカにおいては依存症であることを隠すより、むしろ明らかにして治療に取り組む姿勢を示した方がメリットがある。さらに、病気が克服できれば仕事を続けていける。そういったことを許容する社会になっていることがうかがわれます。日米のこの違いはなんとしたことか。それは依存症という病気に対する認識の違い、偏見の有無でしょう。

 アメリカは、(依存症に限らず)人生に降りかかった何らかの困難を克服したストーリーが美談として賞賛される傾向はあると思います。ベストセラーのランキングにはそんな自伝がよく混じっています。対するに日本は、輝く者が地に落ちれば、それを皆で叩く、という世の中になっている気がします(しかもその傾向が強まっているんじゃないかと)。そんな国柄の違いを踏まえても、社会の病気に対する理解度の違いが大きいことは明瞭です。

 先日ある新聞社の記者さんから取材を受けたときにも、こ話をし、その上で「例えば清原が将来ジャイアンツの監督にという記事が書けるか」という少々意地の悪い質問をぶつけてみました。その方は率直に「例えそう書いたとしても、どこかから横やりが入って決して記事にはならないだろう」と答えてくれました。報道機関には「ニュースという商品」を売る商売の側面があります。客の望まない商品を売りつけることはできないのですから、その新聞社が悪いわけではありません。日本の社会が変わらなければ、そうは書けないのです。

 おそらく「マーシーも清原も犯罪を犯したんだから、拒絶されて当然だ」と言う人もいるに違いありません。お二人とも違法薬物の所持や使用の罪科で有罪判決を受け、一方は服役もしています。それについては、覚醒剤の使用の罪は「被害者のいない犯罪」と呼ばれていることも考慮していただきたい。法律が何かを禁止するのは、誰か(の権利)を守るためです。どの法律が誰を守っているか、考えてみれば分かるはずです。覚醒剤や麻薬の取締法は少なくとも薬物依存症者本人を守ってはくれない。禁止したからって再使用は防げないし、懲罰を与えることはしばしば治療の妨げにしかなりません。

 覚醒剤や麻薬の取締法は、依存症にならない大多数の人々の福利を守っているが、依存症者の役には立ってはいないのが現実です(まあ取り締まるための法律ですからね)。人は軽い気持ちでクスリに手を出しますが、依存症になろうと望んでなるわけではないのです。

 話を元に戻して、依存症という病気に対する無理解や偏見は、当事者にとってありがたくないことです。羞恥の気持ちが、治療や回復資源に繋がるのを年単位で送らせ、予後を悪くします。社会復帰にも妨げになります。では、そんな世の中を変えていくにはどうしたら良いのでしょうか。

 一つのアイデアは、無理解や偏見を取り除くために「啓発活動をする」というものです。実際に啓発活動に取り組んでいる人たちがいて、その熱意と努力には頭の下がる思いです。僕もそうした活動にはできる限りの協力はしようと思います。ですが、僕自身は啓発活動の先頭に立とうという気持ちは薄い。それはなぜか。

 アメリカのAAや依存症の歴史を見ると、アメリカも以前は依存症への偏見が強い社会だったことがわかります。それが変化したきっかけは、AAやその他の機関が依存症からの回復者を大量に作り出したことです。もちろん、啓発活動が大きな役割を果たしたことは間違いないでしょうが、啓発活動だけで社会を変えることはできないはずです。なぜなら、人は身近に存在を覚知することにしか関心を寄せないものです。回復した人がたくさん存在しなければ、理解が進みようがありません。

 だったら僕は回復ということに焦点を当ててやっていきたい、と思うようになりました。社会を変えることが僕の目的ではなく、回復というものが増えていった結果として社会が変わってくれれば、それはそれで有り難いし、自分もより安全になれる。だから、たくさんの回復が作り出せることが大切ではないか。それが当事者が当事者として活動する指向性だ、というのが最近の考えです。


2016年03月28日(月) どうやって「ゆだねる」のか

10日ほど前に、メールで質問をいただきました。返事を出さないまま、日が経ってしまいました。せっかくなので、メールに返信する代わりに、日々雑記のエントリでお答えしたいと思います。

ご質問の部分だけ抜き出します。

> ステップで、行動を神に任せる、という祈りがありますよね。
> これはどういう風に、自分の生き方を定めるという事なのでしょうか?

12ステップでは、ステップ3で自分の「意志と生き方を自分なりに理解した神にゆだねる」決心をします。

ステップ3は「決心をする」ステップですが、決心をした後、具体的にはどのように神にゆだねていったら良いか、という主旨の質問だと理解しました。

決断や決意は心の中で行うことです。だから、ステップ3の決心も心の中で行われるものでしょう。しかし、12ステップは「行動のプログラム」ですから、ステップ3も何か具体的な行動をするのがふさわしいでしょう。ビッグブックでは、p.91に「第三ステップの祈り」が書かれています。「神よ、私をあなたにささげます」で始まる5行の短い祈りです。

p.92では、理解ある人と一緒にこの祈りを口に出して唱える、という行動が提示されています。決心を行動として現わすわけです。

これでステップ3は終わりです。しかし、決心しただけでは「ゆだねる」ことは実現しません。

もし、東大に合格する、と決心しただけで東大に合格できるのなら、はたまた、大金持ちになると決心しただけで金持ちになれるのなら、僕はいくらでも決心するでしょう。しかし残念なことに、決心しただけでは物事は実現しません。決心に続いて、その内容を実現するための努力が必要です。東大に入るためには、決心に続いて受験勉強が必要ですし、金持ちになりたければ努力して事業を成功させなければなりません。結婚だって就職だって、決心だけでは実現しません。

「神にゆだねる」ことも同じです。ステップ3の決心に続いて、ゆだねることを実現するための行動が必要です。それがステップ4から12にあたります。

さて、話を進めやすくするために、この図を見てください。

人生の三つの次元

これは、ジョー・マキューとチャーリー・Pのビッグブックスタディで使われた図を日本語に訳したもので、12ステップの説明に使われます。私たちの人生(life=生命、生活)を三つの同心円で表現しています。

私たちが「自分」と捉えているのは、この図ではグレイのアニュラス(円環)で表現しています。私たちが「心」とか「精神」と呼んでいるものです。

私たちは物質的なもの(金銭や財産)や社会的なもの(人間関係や社会的地位)に囲まれて暮らしています。だからそれらを一番外側の円環として表現しています。

さらに、ビッグブックでは神(あるいは神の意志)は、私たちの一番深いところに見つかる、と書いています(p.80)。だから、神が一番内側に描かれています。

この三つの円を「人生の三つの次元」と呼んでいます。

さて、真ん中にある神は意志を持っています。もちろんグレイの円環である私たちも意志を持っています。つまり「神の意志」と「自己の意志」の二つがあるわけです。ステップ3では、この「自己の意志」を「神の意志」に従わせていく、という決心をするわけです。

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自分の意志を神の意向にだんだんと合わせられるようにするのがAAの十二のステップの目的である。(12&12, p.56)
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内なる神は善なる存在です。しかし、グレイの自己は利己的な存在なので、良い動機を持っていたとしても、「人との間に、あるいは何かのことで、ごたごたが絶えない(AA, p.87)」という生活を送ることになります。だから、自分の意志を神にコントロールしてもらえらえば、うまく生きていけるだろう、というのが12ステップのコンセプトです。

神あるいは神の意志は、僕ら人間に生まれながらにして備わっています。誰もがそれを備えています。だから、そう望むのなら、誰でも、自分の意志と人生を、内なる神にゆだねて生きていくことができます。

でも、僕らは日常生活の中で、内なる神や神の意志を感じ取ることはなかなかできません。どうしてできないのでしょうか。

ビッグブックでは、神(一番内側の円)と自己(グレイの円環)の間に「障害物」が生じている、と言っています。また、12&12では、神と自分をつなぐチャネル(※)が詰まっていると言っています。どっちにしても、神と自分との関係を阻んでいる「障害物」があるわけです。

※チャネルをパイプと訳している(12&12, p.135)。

その障害物とは何か・・それは、恨み、恐れ、欲求不満、罪悪感などです。そして、そうした障害物が発生する原因が私たちの「性格上の欠点」と呼ばれるものです。

だから、ステップ4・5では、恨みや恐れを手がかりに棚卸しをして、自分の「性格上の欠点」を見つける作業をします。ステップ6・7では、見つけた欠点を取り除きます。ステップ8・9では過去に自分が傷つけた人に埋め合わせをします。ステップ10では、ステップ4〜9の作業を日々繰り返していきます。

こうして障害物が取り除かれていくと――あるいは神と自分をつなぐチャネルが掃除されると――、僕らは神の意志を受け取る準備が整います。そこで、祈りと黙想という手段を使って、神の意志を知り、それに従っていく努力をします(ステップ11)。

このようにして「ゆだねる」ということが実現するわけです。ふう、ちょっと大変かもしれませんが、東大に合格することや、大金持ちになるよりはずっと容易だと思います。

僕らは、自己(グレイの円環)と物質的・社会的なものとの関係にばかり関心を持ってきました。お金のこととか人間関係のことです。だからミーティングでもその話ばかりしているでしょう。でも、大切なことは自己と内なる神との関係です。その関係が良くなれば、外側とのことで思い悩むことはずっと少なくなり、楽に生きていけるようになります。それが、ゆだねて生きていくということであり、それを実現するために、棚卸しと埋め合わせ、祈りと黙想に取り組むことが必要です。これが、あなたの質問に対する答えになります。

アメリカのあるNAメンバーが、僕らの心の中には god-shaped-hole が空いている、と言っていました。神の形をした穴です。生きるのに虚しさや辛さを感じるのは、心の中に大穴が空いているからです。それは「神の形をした穴」なので、神以外の何かで埋めようとしても、ぴったりはまりません。僕らはその穴を酒や薬で埋めようとして、かえってひどいことになりました。

障害物を取り除いてみれば、その穴の中には神がちゃんと存在していたことを知るでしょう。生まれたときからずっと一緒にいてくれたことも。その時私たちは奥底から「満たされた」という感じを抱きます。そうして得られる「自分より偉大な力への気づき」、「神がここにいるという実感」がステップ12に書かれている「霊的な目覚め」です。

 最後に振り返ると、あなたにもわかるはず
 結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです
 あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです

 (ANYWAY〜マザー・テレサ作とされている詩


2016年03月18日(金) 分け隔て無く vs. アルコホーリク限定

2年ほど前に、僕が引っ越しと転職をしたことをご存じの方も多いでしょう。

環境が大きく変わったことが、この「日々雑記」の更新が滞った原因の一つですが、それ以外にもAAのゼネラル・サービスに時間を費やされたことが主な理由でした。そのサービスの頸木(くびき)からもようやく解放される見通しがつき、これからはもう少し「家路」に時間を割くこともできる、と自分で期待しています。

新しい仕事の関係で、社会福祉の勉強をすることになりました。先日も5日間のスクーリングに行かせてもらいました。エリザベス救貧法とか、救血規則・・じゃなかった恤救規則とかから始まって、現在の自民党の政策までの社会福祉の歴史の話だとか、援助技術論とか公的扶助論とか。講師は大学で福祉を教えている先生でした。

社会福祉とは何なのか? 僕の単純な理解では、それは「困っている人を手助けすること」です。社会生活をしていく上での基本的な欲求を満たせない状態の人に、何らかの制度を使って助けてあげることです。

福祉制度の無かった時代は、裕福な人が行う「慈善」活動が福祉の役割を果たしていました。だが、慈善は与える側の善意が元になっていて、受け取る側のニーズは反映されにくいものです。他にも血縁・地縁による「相互扶助」の仕組みもありました。でもこの互助というのは、「頂いた分へのお返し」が必要なので、お返しできない立場の人は辛くなってしまう。そこで、税金などを使った公的な制度を作ったわけです。それが、公的扶助(生活保護)や年金や保険制度などの仕組みです。

社会福祉とは、困っている人のニーズと公的な仕組みを結びつける役割であって、必要な仕組みがなければそれを作る活動をしたり、自ら仕組みの一部となってサービスを提供するマンパワーになったりする・・・。

社会福祉は人権思想に基づいているので、対象を選別することを嫌います。例えば、生活保護には無差別平等の原則があって、困窮に至った原因は問われないのです。酒を飲んで身を持ち崩したのは自業自得だから生活保護は支給しない・・という扱いはしてはいけない。要件を満たす人は、分け隔てなく、可能な限り多く助けるというのが基本です。

先日、障害福祉の現場で働きながら、アルコールのことにも関心を持ってくださる、ある方と話す機会がありました。そしてすぐに、あることに気がつきました。その方は、手助けする対象がアルコホーリかどうかを気にしていないのです。アルコール多飲の原因が、依存症であっても、依存症以外の知的な障害や統合失調であっても、同じに扱っているのです。

福祉としては、それが正しい態度なのだと思います。アルコールで問題を起こしていれば、その人にとっては分け隔て無く助けるべき存在なのでしょう。

AAはそうではなく、アルコホーリクに対象を限っています。伝統5は「靴屋よ、なんじの本分をはみ出すな」(12&12, p.203)と、AAがアルコホリズムに専念するように言っています。アルコール多飲には、依存症以外の原因も考えられます。それを区別するのはAAメンバーの仕事ではありませんが、アルコホーリクではないことが明らかな人は、AAの対象でないことも明らかです。

もちろん、アルコホーリクでない人をAAミーティングから追い出せ、と言っているわけではありません。排除の理屈ではない。ただ「下手に多くのことに手を出すよりも、一つのことを最大限うまく行う方がよい」(12&12)という、選択と集中の原理が、AAを世界的に広める力になったことを忘れてはいけません。近年のAAの国際会議でも、"Singleness of Purpose"(AAの目的の単一性)というテーマが繰り返し扱われています。

同じことは、アルコール依存症の回復施設にも言えるのだと思います。アメリカの回復施設のスタッフやAAメンバーと話していて、強く印象に残ったのは、彼らは「(真正の)アルコホーリクだけを対象とする」ことに誇りを持っていることです。同じアルコホリズムという共通の問題を抱えていることが、助ける側と助けられる側に深い理解を生み、その共通の問題に対して12ステップという共通の解決策が提供される・・・。解決策を受け渡す手段が、ミーティングやスポンサーシップである、というわけです。

日本のAAメンバーや施設スタッフが、アメリカの施設のスタッフに会うと、よくこんな質問を投げかけます。

「ほかに障害があるみたいで、回復のプログラムに馴染まない人は、どう手助けしたらいいんだ?」

僕も同じような質問をしました。それに対して彼らは一様に困った顔をし、そして親切に、こう言ってくれるのです。

「アルコホリズム以外の問題は、その専門家にまかせたらどうだろう」

この答えに対して、質問した側が、はぐらかされたような気持ちになってしまうは、AAプログラムが誰を対象にしているかの認識にギャップがあるからです。目的の単一性を良く認識している人たちと、アルコールで問題を起こしている人なら誰でも助けたい人たちと。

アルコホリズムとそれ以外の問題を同時に抱える人はいます。僕の福祉の勉強は、そのような重複障害の人を手助けするのに役立ってくれるでしょう。だから、AAメンバーが福祉の勉強をすることに反対しようとは思いません。でも、福祉の思想をAAに持ち込むとおかしなことになっていきます。

日本のAAは40年間、「関係者」と呼ばれる人たちの応援によって発展してきました。最初はその方たちを、英語の professional を訳して「専門家」と呼んでいたのですが、職業的専門性に自信のない人たちから「俺たち援助職を<専門家>と呼ぶのは止めてくれ!」と言われたので、仕方なく20年ほど前から援助者のことをAAの「関係者」と呼ぶようにしたのです。

この「関係者」には、医療、行政、矯正などいろいろな分野の人が居るのですが、数が一番多いのは福祉の分野の人(ワーカーと呼ばれる人たち)でしょう。その人たちの善意があってこそ、日本のAAがここまで成長してきたのです。だから、その人たちが気を悪くされたら申し訳ないと思いながらも、やはり言っておくべきことは言わねばならぬ、という気持ちがあるのです。

ケースワーカー、ソーシャルワーカーの人たちは、福祉の仕事をしているだけあって、「分け隔て無く、なるべくたくさん」を手助けするという理念があります。個人的にそういう指向性を持っていない人だって、職場の倫理観がそうなんですからね。だから彼らには、AAを福祉の社会資源と捉えて、

「AAは、アルコールで問題を起こしている人なら誰でも引き受けるところ」

であって欲しい、という願いがあり、それがときには「であるはずだ」という思い込みにもなる。それは福祉の理念をAAに押しつけることになる。それに対してAA側は「アルコールで問題を起こしている人には、アルコホーリクもいれば、そうでない人もいる。AAはアルコホーリクのみを対象にしている」ときちんと伝えなくてはいけないのでしょう。

AAのことを正しく伝える努力が弱まると、AAは「別の専門家に任せるべき人」を引き受けるようになってしまいます。それは、その人にとっても、AAメンバーにとっても不幸なことですし、苦しんでいるアルコホーリクが助かるチャンスを減らしてしまいます。

AAメンバーは、AA以外にもやらねばならないことがたくさんあります。仕事もあるだろうし、家庭のこともある。ストレスにつぶれないように、人生を楽しむレジャーの時間も必要でしょう。24時間の中から「AAのメッセージを運ぶ」ために割ける時間は多くないはずです。限られた時間を有効に使うために、対象を真正のアルコホリズムに限定するということも必要でしょう。

だがそれは、どこかで誰かに冷たい態度を取らねばならないことを意味します。12の伝統の中で、伝統5の実践が一番厳しい気もします。

(最近アメリカのGSOから出てくる文章は、AAプログラム(12ステップ)がアルコホリズム以外にも効果があると受け取って欲しくない、というニュアンスが強くなってきています)。

さらに、AAの(真正の)アルコホーリクと、医師が医学的にアルコール依存症と診断を下した人は同一ではない、といことも述べておかねばなりませんが、それについては稿を改めましょう。

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年末年始にこの雑記が書けなかったので・・・

昨年一年の統計データ(Webalizer出力データ)
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 (FC2ブログはカウンターを設置していないので不明)。


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