心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2006年11月14日(火) スルー力

どうも調子が悪いです。
とりたてて熱があるとか、痛みがあるとかじゃありませんが。

あれもやらねば、これもやらねば、と思いながら、一つ一つのことにとても手間がかかり、時間だけがどんどん過ぎていきます。するとやはり「焦り」が顔を出し、こんなことではダメなのではないかという「不安」が頭をもたげてきます。

要するに「うつ」なので、休むのが一番なんですが、休むという決断ができないままに、ずるずる毎日過ぎていってしまいます。

何をやっても面白くなく、雑記も書きかけてみるのですが、途中でとてもつまんなく思えてしまいます。こんなつまらん文章を書き上げたところで、何の意味もないとばかりに捨ててしまいます。もともと、書いても捨てる文章も多いんですが。

さて「スルー力」。「するうか」ではなく「するうりょく」です。
一部では「するうちから」と読ませている人もいるみたいですが。

スルーする力です。え? through は動詞じゃないですか? まあ日本語ですから。
サッカーでスルーパスってのがありますね。パスしてよこされたボールにタッチせずに、自分の後ろの選手にそのまま渡す行為です(合ってる?)。
だからスルー力は、「物事を自分の中に引っ掛けずに、そのまま通過させる能力」とでも言いましょうか。無視する能力と言ってしまうと、拒絶する意味合いが強すぎる気がします。

物事に積極的にかかわっていくべきだという考えの人には、スルー力という言葉は似合わないかもしれません。自嘲気味に捕らえる点では、以前流行った「老人力」に似ているでしょうか。

ネットニュースとか、メーリングリストとか、掲示板とか、ブログでもそうですが、ネットのオンラインコミュニティに長くいるためには、この「スルー力」を培う必要があると思います。

自分と反対の意見とか、単に気に食わないだけとか、ともかく何か引っかかりのある投稿に対して、反応せずに自分の中を通過させて外に出してしまう能力は必要なんです。
ひとこと言い返してやりたい気持ちが出ることもありますし、無知や無理解に釘を刺してやりたい気持ちになることもあります。
でも、そのために自分の時間を費やして反論を書くのは、かなりエネルギーの無駄かもしれません。なにせ、時間は有限であって「自分の意思」ばかり実行していると足りなくなってしまいます。

それよりも、自分が表現したいことに集中したほうが、意味があります(たぶん)。それがたまたま相手の投稿によって喚起されたなら、手伝ってもらえたということでしょう。

そうは言っても、無駄に関与してしまうことは止められません。だからこそ「スルー力」なんて言葉を使ってるんでしょう。

調子が悪いときこそ、スルー力を大切にしていきたいところです。
試験とかAAミーティングにスルー力を発揮してしまうこともありますが。


2006年11月12日(日) ニュースなるもの

飲酒運転事故の犠牲者は、毎年一定の数、出続けているものだと思います。
しかし、一時期は飲酒運転による事故の報道が増えていました。
また、自殺者の数は、交通事故の死者の何倍もあり、未成年の死も決して少ないものではありません。が、昨今はそれがニュースとしてたびたび報じられています。

報道メディアが関心を持てば、そのジャンルの記事が集中的に報じられるわけです。というか、メディアが関心を持とうが持つまいが、事象は変わらずに発生し続けているのが本当です。

ではなぜ、とっかえ引き換え、いろんなニュースが「流行」となって報じられるのでしょうか。

それはやっぱり同じようなニュースばっかり見ていると、飽きてくるからでしょう。人間、同じ刺激を受け続けていると、感じる閾値が高くなっていきます。要するに鈍感になるわけです。同じ料理を毎食食べていると飽きてくるのと同じです。

飽きてきた頃を見計らって、別の料理を出すと、美味しいといって食べてもらえるわけです。というわけで、ニュースもメニューを入れ替えていかねばなりません。

ニュースも商品であって、ニュースを配る団体も会社という営利組織であります。営利組織であるからには、利益を上げて会社を維持し、社員に給料を払っていかねばなりません。そのことを忘れてはいけないと思うのです。なまじ商業主義の面をしていないだけに、ついうっかり「社会の公器」という神話を信じてしまいかねません。

NHKは営利組織ではないものの、事情は似たようなものでしょう。つまらない人気のない番組ばかり流していれば、そんな放送は止めてしまえという声が必ず上がってきます。NHKは放送文化維持のために止めるわけにはいかないと言います。それもウソではないのでしょうが、止めたくない別の事情もあるでしょう。
放送を止めてしまえば、それに携わっていた人間は不要になり、ほかに使いまわしがきかなければ解雇するしかありません。でも人員整理は営利組織でないぶん難しかったりして。

日本国民の90%が自衛隊の存在に賛成になったら、朝日新聞は明日にでも自衛隊賛成の記事を載せるだろう、と言った批評家がいました。同じように90%が反対になったら、産経新聞は自衛隊反対に回るでしょう。

ニュースメディアの第一の目的は自己保全であり、流行はニュースの消費者が作っているのであります。


2006年11月11日(土) 自分のハイヤー・パワー

「自分の」ハイヤー・パワーを見つけることが、どれほど大切なことであるかは、あまり伝わっていない気がします。

たまにミーティングで聞く話に、「今の自分は苦しい。でもアルコール依存症でない普通の人も、アルコール無しでこの苦しみに耐えているわけだから、自分だって耐えられるはずだし、耐えなければならない」というのがあります。

それを聞くと、本当にそうなんだろうかという疑問が、僕の心の中に浮かびます。
「みんなが、自分と同じように苦しい」という認識は、はたして正しいのかどうか。

僕は酒を飲んでいるころ、世の中のほとんどの人は(男性の多くと、女性の一部は)、毎日酒を飲むものだと自分に信じ込ませていました。自分もその中の一人であって、何も特別ではないし、異常でもないと、自分を納得させていたのです。
そうした自己欺瞞は、今や完全に崩れ去って、毎日酒を飲む人自体がそもそも少ないのであるという事実を受け入れています。
飲酒運転をするような連中は、どうせ毎日酒を飲んでいるんだろう、と決めつけたいところですが、それは自分の価値基準で判断しているだけの話。現実はたぶん違うのでしょう。

「みんなが、自分と同じように苦しい」という判断は、自分と同じような暮らしをしている人は、今の自分と同じ苦しみを感じているはずだ、という自分の判断によるものです。
同じ状況でも、もっと楽に暮らしている人も多いという事実に目を向けるのは、かえってその人を苦しめるだけなのかも知れません。

自分のハイヤー・パワーを見つけ、そのハイヤー・パワーとの間のパイプを掃除することで、とても生きるのが楽になったんですよ、という話を聞いても、「みんな苦しいはず」と信じている人は、楽になった話は単なる強がりであり、自分がそういう強がりを言うようにはなりたくない、と思って、また元の苦しい生活へ戻っていくのでしょう。
何よりも、僕自身がそうでありました。

酒が底つきを体験するまで止まらなかったように、生き方も底をつかないと楽な方へは変わらないんじゃないか、そんな気もします。でも、そうとは限りませんね。

とりあえず、「みんなが苦しいはず」という思いこみを捨て、状況が変わらなくても、自分にだってもっと楽な暮らしができると自分に言い聞かせるところから始めないと。


2006年11月08日(水) 冷たい風呂

めっきり寒くなりました。氷も張りました。
急に寒くなったせいでしょうか、不眠傾向になり、朝までにしばしば目が覚めたりします。
季節の変化に心身がついていけない、というか何事にも変化に弱い自分であります。

AAミーティングに出席してから、はたまた残業してから帰宅すると、たいてい冷たい風呂に入ることになります。家族が風呂に入るのは7時ごろ、僕の帰宅は10時ごろになるからです。すでに妻は寝ていて、子供たちが歯を磨いていたり寝る準備をしているパターンが多いです。

3時間以上前に入れた風呂は、35℃かそれ以下まで冷えています。熱いお湯を足せばと思っても、ボイラーから出るお湯の温度はそれほど高くありません。35℃の風呂水に、50℃のお湯を、重量比で1/4量足したら、いったい何度になるでしょうか?(この場合、外部への熱の漏洩は考慮しない)。
暖かくて気持ちよい風呂と言うには、最低42℃ぐらいは欲しいものです。

風呂水を全部抜いて入れなおそうとすると、背後から寝ていたはずの「もったいないお化け」が出てきて、残り湯を使って洗濯を始めるので、30分ぐらい待たされます。我が家は水道管の末端に近いので、送圧が下がって水の出が悪く、風呂水がたまるまでさらに20分あまり待たねばなりません。

それも面倒なので、冷たい風呂に我慢して入り、熱いシャワーでも浴びてよしとするしかありません。寒さがきつくなってきた昨今、風呂のぬるさも増しております。
それでも毎日体は洗いたいのです。病院は毎日風呂に入れないから嫌いです。

月曜はバースディミーティングで、火曜はスポンシーの関係で、どちらもルーチン以外のミーティングに参加しました。どちらも20人ぐらいの参加者がいました。それでも、話は全員に回ります。人数の少ないミーティングで育って(?)、大人数に慣れていないので、一人2分半で何をしゃべっていいのかわかりません。短い時間でステップの話をするのは、まったく不得手です。
この先も、この人数で推移するなら、時間を延ばしたり、会場を増やしたりするべきでしょうが、人数には波があることも学習しています。

それでも長い目で見れば、確実に人数は増えているのは確かです。


2006年11月07日(火) ナチュラルワイン

ミーティングハンドブックを使っている人は、第3章に「ナチュラルワインしか飲まない」という言葉があるのを憶えているでしょう。
前の翻訳では「生ぶどう酒」でした。

ナチュラルワインて何だろう、と思って調べてみました。
natural wine は、自然発酵の酒精強化していないぶどう酒であります。おフランスでは vin nature。
vin doux naturel (甘口天然ワイン)というものがあり、これは「天然」とは言っても、実はワインにアルコールを添加したもの。これに対してアルコールを加えていないワインを「ナチュラルワイン」というのだそうです。

これは日本酒の本醸造(醸造用アルコール添加)と、純米酒(アルコール無添加)の違いとは意味合いが違って、アルコール度数の大小の違いのほうが強そうです。

ようするに「ナチュラルワイン(のようなアルコール度数の低い酒だけしか)飲まない」ことにしたらどうか? という意味ですね。
もちろん、ビール実験と同じで、度数の低い酒にしても、何も解決しないわけですが。

さて、妻が帰ってきました。

いや、家出してたわけではなくて。
実家に帰っていたのでもありません(ここは妻の実家で、僕は婿養子です)。

風邪をこじらせてぜんそくになり、入院していたのが、退院になりました。子供たちも戻ってきて、ふたたび家族揃った暮らしが始まりました。

うーん、部屋が散らかる。洗濯物が増える。トイレが汚れる。菓子や夜食を勝手に食われる。ゴミが増える。
まあ、猫は喜んでいますが。


2006年11月06日(月) 狂気乱舞

仲間のバースディミーティングでした。
僕はあまりプレゼントを贈るほうじゃありません。せいぜいAAの本とかです(もちろん、いつでも例外はあります)。
たまに気が向くと、バースディミーティングで集合写真を撮影して、額に入れて後から贈っています。最近は六つ切り、四つ切でも数百円で引き伸ばしできますし、額のほうも千円しません。安価でありながら、なんか立派そうなものになります。

さて、現在使っているディジカメは、バッテリーの持ちが悪いのです。
しかたないから予備のバッテリーを持ち歩いています。
バースディミーティングの前に、車の中でバッテリーを交換しようとしました。
カバンを空け、ケースの中から予備のバッテリーを取り出し、カメラを開けて、そちらのバッテリーを取り出し、入れ替えてそれぞれ格納する・・・何の問題もないはずでした。
が、カメラをワイシャツのポケットにしまおうとした瞬間、カメラの電池ボックスのふたが開いているのに気がつきました。
(あ、いかん。ふたをきっちり閉めなかったから、バッテリーを落としちゃった)
そう思った僕は、落としたバッテリーを車内で探しました。

でも、みつかりません。手元にあるバッテリーは、カバンにしまった1個だけです。

ミーティング前に車内を捜索し、終わった後にも捜索し、自宅へついて懐中電灯をもって捜索し、諦めきれずにもう一度捜索しました。
いますぐこのトラブルを解決しなくては、という衝動から開放されて、明日明るくなれば自然に見つかるだろうと思った頃には、もう寝る時間でした。

交換して手元に残ったバッテリーを充電しておこうと思い、充電器を見ると、ちゃんとそこにバッテリーがあります。「昨日充電し終わったバッテリーをかばんにしまった」「車内でふたつのバッテリーを交換した」。そういう僕の確信はまったく真実ではありませんでした。

バッテリーは、昨日からずっと充電しっぱなしで、車内で交換し終わったと思ったのは勘違い。

うつ状態のときは思考が鈍りますが、知能が落ちているわけじゃないと言います。ただ、注意力が欠如しているので、必要な情報が入って来ず、正しい判断が下せないのだと。
誤った認識を元に、一生懸命から回りして疲れ果てている。まさに「下手な考え」というやつです。

統合失調症も、知能に異常があるのではなく、正しい情報が入力されないので、間違った判断を下してしまうと書いてありました。コンピューターだって入力が間違えば、出力はいつも間違っています。

たとえ知能が正常であっても、行動が狂っていないとは限らない。自戒の言葉であります。


2006年11月05日(日) 低空飛行

今日は午後まで寝ていて、いったん起きた後、また夜まで寝ました。
といっても、ぐーぐー眠れるわけでもなく、布団の中でごろごろしているだけですが。かなりウツであります。

起きて活動したところで、何をやってもとても効率が悪くて、ただ時間が過ぎるだけであります。そのくせ妙に疲れるのです。
そういう時は、頭を使わず、体を使うと良い、と医者に言われたので、アイロンをかけたり、モルモットのケージを掃除したり、滅多に見ないテレビを見たりしました。
バラエティ番組って、ほんとにくだらないなぁ、と思いながらも、あまりのくだらなさに笑ってしまいました。放送作家ってのも大変でしょうね。でも、放送作家は他のスタッフ同様、黒子であり、スクリプトを書く人間が、前へ出ては面白くありません。
アナログ放送が終了した時に、地デジに切り替えるかどうか、まだ5年悩めます。

隣県でAAのイベントが行われていたので、土曜日のミーティングは参加者が少ないだろうと思っていたのですが、初めてだとか、二回目だとか、そういう人がいて、いつもと同じぐらいにぎやかでした。

最近つくづく思うのですが、やっぱりビッグブックはもう一度翻訳し直したほうが良いですね。実際それを回復の道具として使ってみると、結構使いにくいところが多いのです。
あれを一冊の書物と捉えている人は、文章が(また)変わることには、反対なのかも知れません。けれど、回復の道具と捉えている者にとっては、その道具が使いやすいかどうかは、死活問題であります。そして、これからつながる仲間の生命や幸福を左右する問題でもあります。
実際に使ってみないと、使いにくさというのは分からないわけで、そのためにも古い訳から現在の訳に、改まる必要があったことは確かです。次はゆっくりやればいいことだと思います。
AAのメッセージは、難解でもなければ、複雑でもありません。「難しくて理解できない」なんてことは一切なくて、ただ単に自我がそれを受け入れて実行することを拒んでいるだけなんです。
「この簡単なプログラム」「この簡単な霊的道具」という言葉に偽りはありません。

ステップがなければ、ミーティングは成長しない。ミーティングが成長しなければ、AAも成長しない。人が入れ替わるだけのAAのままであります。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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