心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2006年03月15日(水) 熱意の偏り

市民ニュースなるものがあります。
いわゆるマスメディアが「プロの記者」、つまりそれで飯を食っている記者が書いた記事を配信するのに対し、「アマチュアの記者」が書いた記事を配信するところが違っています。

アマチュアの記者がプロの記者より優れている点としては、特定のセグメントに特化していることでしょう。プロの記者だと、たとえば依存症の記事を書く人は、社会面や生活面の記者の人で、病気のことだけじゃなくて、社会生活一般のことを広く取り上げることを使命としているわけです。したがって、個々の事象に対する理解はそう深くはなり得ません。
逆に「市民記者」は、収入以外のものを使命としているのでしょうから、自分の得意な分野を追求することができます。

インターネット登場以前の時代、新聞とは「知の集積」でした。新聞記者は、広く世間を見聞し、人々に紹介する価値のある事象を(公共のということになっている)紙面に載せて伝えたわけであります。特定の分野に深化することは、その分野のプロパーが「専門家」とか「識者」とか呼ばれて担当していたわけです。情報の発信にさえコストを必要としていた時代には、情報を発信するのはプロの役割でした。

ネットが登場し、ワープロソフトをいじるのと同じぐらいの手間でWebページが編集できるようになると、情報発信へのハードルはぐっと低くなりました。それまでは自分の好きな分野の情報を本という形で配信しようとすると、少なくとも数十万円は用意しないといけませんでした。誰にでもできることではありません(まあ、それができる人が何万人と集まるコミック・マーケットのすごさを改めて感じるわけですが)。ところが、WWWという技術の登場によって、ネット接続と、数千円のソフトと、時間と熱意があれば、同人誌レベルの発信は誰にでもできる時代になりました。
さらには、21世紀に入ってブログが流行すると、ソフトも時間も熱意もさらにハードルは低くなり、裾野は広がりました。

当然そうした情報発信の中には、特定の分野に限れば、新聞などのマスメディアよりも高い「知識の山」が存在することになります。そうした山の価値が認められるのに10年は要したように思います。

そうして認められた個人による情報発信の価値を、ふたたびマスメディアに集積してみる試みが「市民新聞」であろうかと思うのです。

日本での市民新聞としては、JanJanと、Livedoor PJニュース。それから韓国のOhmynewsが日本に上陸するそうであります。

「心の家路」のニュース検索にも、JanJanとPJニュースはひっかかってきます。今のところ市民新聞だからという理由でそれらを取り除いたりはしていません。
ただ、市民新聞で引っかかる記事は、DV関係とギャンブル依存関係だけであります。そういう記事の中に「アルコール」だとか、「依存」だとかいう言葉が出てくるので検索対象になっているのです。そしていつも同じ人が記事を書いていることもわかります。
それは、たまたまDVやギャンブルに関心のある市民記者がいて、アルコールや薬物に関心のある記者がいないだけなのでしょう。

市民ジャーナリズムについての話を読むと、情報の正確さを誰が担保するのかという議論になりがちのようですが、僕の感じ方ではこうした関心の偏りのほうが深刻だと思うのであります。

アマチュアによる情報発信は、どうしても「熱意と時間」をどれだけ捧げるかという問題になってきます。そして時間と熱意をたくさん捧げた人の意見は浸透しやすいということであります。たとえばWikipediaの記事にしても、情報の正確さではなく、たくさんの時間を費やしてたくさんの記事を書くことでその人の意見が浸透するわけです。

しょせん「個人の意見」なのだということを承知していれば問題ないのでしょうが、ジャーナリズムだとか百科事典という名前が付くと、そこに真実が存在しているという期待値が高くなりすぎる欠点があります。

(この項、続く)


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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