心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年06月29日(金) 発達障害ネタ

スポンシーさんとステップワークをやっていました。彼が持ってきた紙束の中から、棚卸し表を取り出そうとするのですが、なかなか見つかりません。「あれ、どこ行っちゃったかな。忘れちゃったかな」と言いながら数分探し続けたのですが見つかりません。こちらも、表がなかったら今日はどうしようかなどと考えながら待っていると、そのうち「あ、ここだ」と脇に置いてあった棚卸し表の束が見つかりました。

鞄から他のものを取り出すのに邪魔だったので、棚卸し表を取りのけて脇に置いたのを、すっかり忘れてしまっていた、という話でした。

実は彼は発達障害の疑いで専門医を受診しているのですが、医師によれば、そのように「ついさっき物をどこかに置いたことを忘れて探し回る」というのは、ADHD(注意欠陥多動性障害)の典型的な症状なのだそうです。

・・・そんなんだったら、いくらでもある僕です。

実は先日の夜も、風呂上がりにドライヤーで髪を乾かし終え、メガネをかけようと周囲を探したのですが、メガネが見あたりません。普段だったら、ドライヤーをかける前にメガネを外してテーブルの上などに置くので、あちこち探したのですが見つかりません。埒があかないので家人にも手伝ってもらうのですが、それでも見つかりません。「風呂に置いてきたのではないか」「二階にあるのではないか」と言われ、自分の記憶はハッキリしてないのですが、普段どおりこの辺に置いたはずなので、風呂や二階という可能性はないはずでした(ええ、そうに違いありません)。

数分後、ふと気がついてお風呂を見に行ってみると、湯船の底にメガネが沈んでいました。メガネをタオルでぬぐいながら風呂から出てきたら、家人にはすっかり呆れられてしまいました。

こういうADHD的な僕が、アスペルガーとか自閉圏の多いIT業界で働いているので、結構気疲れするわけです(慣れますけどね)。

この雑記では以前、発達障害に関する連続記事を書いたことがありました。知的障害→自閉圏と話を進めて、次にADHD、最後に杉山先生が唱える「第四の発達障害」(虐待による発達障害)で締めくくる予定でしたが、ADHDの話の前で途切れてしまいました。

最近、雑談の中で聞いた話だったので、元ネタはどこか忘れましたが、発達障害と診断される人で、純粋なADHDの人はほとんどいない、という話でした。でも、実際にはADHDと診断される大人は結構いるわけです。それは、発達障害の診断に慣れていない医師が、心理検査の結果に頼りすぎて、目の前の患者の特性を見落としてしまった結果、ADHDという診断を下してしまうからではないか、という話がくっついていました。

国際的な診断基準では、ADHDと自閉圏の症状が重なっている場合には、自閉圏の診断を優先する決まりです。だから、アスペルガー症候群とか、高機能自閉症とか、PDDNOSとか、広汎性発達障害とかの診断名がつくはずのものが、ADHDという診断になってしまっている。実際にその人の社会適合を妨げているのは、ADHDの症状より自閉的な症状であるのに、それが無視される結果になっているわけです。

僕も、純粋なADHDの人で、発達障害の診断を受ける大人は珍しいのではないかと思っています。いるとすれば、余程症状の激しい人でしょう。以前テレビでADHDの女性の生活を放映していました。それは最初はキッチンで料理をしている場面で始まります。そこで宅急便が来て呼び鈴を鳴らすと、鍋を火にかけたままそれに応対しようと玄関に向かいます。戻ってくる途中で洗濯が終わっているのに気づき、洗濯機から取り出して干し始めます。そこへ電話がかかってきたので、話に夢中になり、やがて焦げ臭い匂いに気づき・・という流れでした。さすがにここまでの人は珍しいでしょう。

ADHDは子供の頃は顕著なものの、脳が成長する連れてバランスが取れて症状が治まっていき、成人する頃には目立たなくなるケースが多いわけです。(それが連続記事が途絶えた理由でもある)。むしろ自閉の社会性の障害のほうが、適応の障害になりがちです。

別の話ですが、病名のかっこよさ悪さってのはあると思います。

佐々木倫子の『おたんこナース』というマンガに、糖尿病という病気はかっこわるいという話が出てきます(病名に尿がついているから)。精神科の病名だと、統合失調症という病名は忌み嫌われるけれど、うつ病だったらオッケーという風潮があるように思います(昔だったら神経症とかはオッケーだった)。

発達障害というジャンルにも、似たような雰囲気があって、例えばアスペルガーっていうと「なんか頭がよさそうな感じ」とか(実際には自閉の症状がやや重度という意味)。自閉症よりADHDのほうがマシに感じられるとか・・・。

そういう雰囲気を背景に、自閉よりADHDのほうが本人も家族も受容しやすいというので、そちらを選んでしまう医師がいる・・・というのは雑談レベルの話なので、まともに取り合ってもらっちゃ困りますけどね。

ある場所で自分をADHDだと言っている人の話を聞いていたのですが、待ち合わせの予定に遅れるのがADHDの症状だと言っていました。確かに、待ち合わせの予定そのものを失念してしまうのは、ADHDの症状としてありがちなことです。でも、話の中身は、待ち合わせの予定から逆算して、何時に家を出れば間に合うか計画を立てる能力のことを言っていましたから、それは自閉の問題です。適切な支援策を受ければ、問題は緩和するはずなのですけどね。ADHDという診断がミスマッチを招いているわけです。

話はさらに飛んで、アメリカのAAはADHD的文化で、どんどん変えていくのを良しとし、日本のAAは自閉文化で、いつまでも変わらないことを良しとする、なんて言った人がいました。(日本人からすれば、そもそもアメリカという国全体がADHD的に感じますけど)。

日本のAAでは「先ゆく仲間からの述べ伝え」などと言って、先達から受け継いだやり方を変えないことが良いという雰囲気があります。たぶん始めたときにたまたまそうなっただけで、そうした意味は大してないのに、ともかく「変えてはいけない」という雰囲気が強いのです(自閉的こだわり)。

例えばバースディミーティングとかも、そのグループのやり方が「式次第」みたいに決まっていて、ちょっとでも変えると「違う!」とか指弾されちゃったりして。新しく司会進行役をする仲間が、オールドタイマーから何か言われやしないかと緊張しまくりとかね。(ADHD的な)僕に言わせれば、本質が保たれていればやり方なんてどうだって良いじゃねーかよ、と思うんですけどね。

えーと、何の話でしたっけ。


2012年06月18日(月) 12の伝統の解釈自由度

AAの12ステップは個人の自由な解釈の余地を大きく残しています。
だから、ある人のステップのやり方を「間違っている」と断ずることはなかなかできるものではありません。

ただやはり、12のステップには「本質」とでも言うべき事柄はあるように思います。それは二つ。一つは「棚卸し」(ステップ4・5)です。これは自分のどこが間違っていて、どこが悪かったのか、書き出して、他者から指摘を受けるステップです。もう一つは「埋め合わせ」(ステップ8・9)です。こちらは、自分の過去の過ちを相手に謝罪しに行くステップです。ステップ10はこの二つの繰り返しです。

だから、「棚卸し」と「埋め合わせ」の両方がそれなりにできていれば、ステップとして効果が出てくるだろう・・というのが僕の考えです。この二つが欠けてしまうと、いくら12ステップを自由に解釈して良いとは言え、効果が期待できなくなるんじゃないかと思います。

棚卸しのステップ5は「神に対し、自分に対し、そしてもう一人の人に対して、自分の過ちの本質をありのままに認めた」となっています。「もう一人の人」は自分以外の人です。誰だって自分の間違いを他の人に認めることはしたくありません。まして、その相手がもっと鋭いツッコミをしてくる可能性があれば、なおさら嫌です。だから、このステップ5を避けて通ろうとする人は少なくありません。

最近こんなことを聞き及びました。某所で、「この<もう一人の人>は、自分の中の<もう一人の人>ではいけないのでしょうか?」と聞かれた精神科医が、「それで良い」と答えてしまったという話です。たぶん、その先生は12ステップには詳しくなかったのでしょう(普通医者は12ステップには詳しくない)。

自分の中の<もう一人の人>というのは、例えば自分の良心などを指した言葉でしょう。それを<もう一人の人>にするわけにはいかないでしょうね。他者に評価してもらうのがステップ5の肝心なところです。先生は善意でアドバイスしてくださったのでしょうが、真に受けたメンバーがいたとしたらご愁傷様です。

さて、12のステップが個人の回復に関わるもので、12の伝統はAAグループに対する指針です。
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/aa-jso/ftradit.htm
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/aa-jso/ftradit2.htm

12の伝統も、12のステップと同じように、どのように解釈するかは各グループに大きな自由度を許しているのでしょう。であるのに、「伝統」が「ルール」であるかのように思い込んでしまう人もいます。

自分の12ステップの解釈を人に押しつけようとするメンバーは嫌われがちです。同じように、12の伝統の自分の解釈を人に押しつけようとすれば嫌われるでしょう。

伝統の11番には、AAの広報活動は「宣伝よりもひきつける魅力」に基づくべきだとあります。promotion ではなく attraction であるべき、という話です。日本のAAメンバーは、これはAAの宣伝をしてはいけないという意味だと解釈する人が多いようです。

しかし、海外ではテレビやラジオでAAのコマーシャルが流れており、YouTubeで探して見ることもできます。WSM報告書には、オーストラリアで駅にAAの広告を出したところ、ホームページのヒット数が激増したという報告が載っています。

海外のやり方が間違っているとも、日本の伝統の解釈が間違っているとも言いづらいものです。12の伝統の解釈がそれぞれに違っていて構わないということでしょう。例えば、国内で、あるAAグループはローカル新聞に広告をだして存在を世間に知らせ、別のグループはそうしたことはしない・・というのもありでしょう。

伝統の6番は、AAの外部に対してAAの名前を使うべきではない、とあります。AAメンバーが個人としてどんな活動に参加しようと自由だけれど、AAが団体として別の団体の傘下に入るのは良くないという趣旨です。

ウィリアム・ホワイト先生が音頭を取っている Faces and Voices of Recovery という団体のサイトからたどっていろいろ見ていると、アメリカでは結構いろんな集まりに、AAが「団体として」参加していることに気づかされます。日本のAAメンバーのなかには、それは伝統違反なのではと疑問を唱える人もいることでしょう。向こうでは、他の団体の傘下に入らなければ、参加団体として名を連ねることは禁忌とはされていないわけですね。

これも伝統の解釈の違いなのでしょう。12のステップ同様に、12の伝統も解釈に幅があって良いものです。日本の中でも場所場所で解釈が違っても構いません。

でも、先ほど12のステップでも例を挙げましたが、自由な解釈が許されるとしても、当然「明らかな逸脱」はダメなわけで、12の伝統についても「明らかな逸脱」を許していては、伝統の存在意味がなくなってしまいます。当然そういう場合には、決然とした態度が必要にもなるでしょう。

評議会や理事会は12の伝統の「最終的な守り手」であるとされています。だから、評議会や理事会あてに「この件は12の伝統に照らしてどうなのか」という判断を求める声が出てきます。その声には、(本来自由な解釈が許されるものに対して)全国一律の解釈基準を作って欲しいという意図が含まれているような気がすることもあります。

評議会や理事会が「最終的な守り手」とされているのは、そうした基準を提供する立場にあるというわけではなく、「明らかな逸脱」がAA全体に広まらないような番人たれ、ということです。決して、12の伝統の解釈について権威的な機関があるというわけではありません。


2012年06月04日(月) ジェネリクかジェリネクか

AAのミーティングでは「ミーティング・ハンドブック」と呼ばれる16ページの冊子を使っているところがほとんどだと思います。これは日本独自の習慣で、他の国のAAではビッグブックを使っているところが多いそうですが、ともかく日本ではこの簡便な70円の冊子が愛されています。

この冊子はもう何年も改訂されていないので、メンバーの中には、この冊子の内容は変更できないと思っている人もいるようですが、以前は内容がずいぶん現在とは違っていました。

こんな図も掲載されていました。
アルコール中毒の進行と回復


これは、「ジェリネク・チャート」とか「ジェリネク・カーブ」と呼ばれる図です。図を作ったジェリネク博士(E. Morton Jellinek, 1890-1963)は20世紀半ばのアルコホリズム(アルコール依存症)の研究者として大変有名な人で、彼の功績は現在の医療にも大きな影響を及ぼしています(良い影響か悪い影響かはともかく)。

極めて研究熱心な人だったようで、最後の勤務地スタンフォード大学の研究室のデスクで絶命したという逸話が残っています。WHOのアルコホリズムに関するコンサルタントでもありました。

初期の日本のAAでは、AA以外の文書の翻訳を頒布していました。その中の一冊が『アルコール中毒という病気』という小冊子です。これはWHOのニューズレターをアメリカ・カリフォルニア州政府がパンフレットにしたものをピーター神父が手に入れ、日本のAAメンバーに紹介しようと訳出したものだそうです。すでに手に入らないので、こちらに掲載しています。

アルコール中毒という病気――アルコホリズムにいたる警告のシグナル――
http://www.ieji.org/archive/warning-signals.html

これはジェリネク博士の論文が元になっています。読めばジェリネク博士が、アルコホリズムをどう捉えていたかがよく分かります。彼はこの病気を「アルコールのコントロール喪失」であり「失ったコントロールを取り戻すことはなく、節酒は不可能で」「進行性で死に至る病気」であり、有効な治療を受け入れるためには本人が「底をつく必要がある」としています。これは、AAの主張と重なります。

ジェリネク博士は著書 The Disease Concept of Alcoholism の中で、アルコホリズムを5種類に分類しています。

α(アルファ)型:肉体的・感情的な苦痛に対処するために、アルコールの効果に頼っている。飲酒のせいで社会的な問題が生じているのだが、一方で(飲酒の原因となる)社会的個人的問題を抱えてもいる。いわば「問題飲酒者」。ジェリネクによれば、コントロールを失っておらず、本気で願えば酒はやめられる。「病気(としてのアルコホリズム)」とは言えない。

β(べーた)型:飲酒のせいで肝障害などの身体的な症状がある大量飲酒者。ほぼ毎日大量に飲酒する。しかし肉体的にも精神的にも依存しておらず、離脱症状もない。「病気(としてのアルコホリズム)」とは言えない。

γ(ガンマ)型:アルコールに対する耐性を獲得し、身体的に依存し(離脱症状があり)、コントロールを失っている。いわゆる「AA型のコントロールを失ったアルコホーリック」。ジェリネクによれば、このタイプこそ「病気」であり、アメリカ国内およびAAの中で最も一般的な存在。

δ(デルタ)型:γ型に似ている。コントロール喪失はないが、離脱症状があり断酒の難しいタイプ。状況によっては節酒ができる。

ε(エプシロン)型:他のどのタイプとも違い、周期的に大酒を飲む時期以外はまったく飲酒しない。いわゆる「渇酒症」。γ型の再飲酒とは区別が必要。

ジェリネク博士の研究はエビデンスに基づいたものだったとは言え、批判もあります。アメリカにおけるアルコール依存の研究は1940〜1950年代に進歩を見せていますが、それにはAAが発展したことにより、酒を断ったたくさんのアルコホーリクと面接することが可能になったという背景があります。

ご存じの通り、酔っ払いと話すのは骨が折れます。飲み続けている人にインタビューをしても得るものは少ない。きちんと酒をやめられた人たちの集団を相手にしたかったら、AAしかなかった。という当時の事情もあります。彼は数千人のAAメンバーと面接する研究から、AA型のアルコホーリックこそ、アルコホリズムという病気の本質であると結論づけることになりました。

彼はこの分類をすることにより、アルコホリズムにも多様性があることや、アルコホリズムという疾病概念がいたずらに拡大されることを防ぐ意図があったようです。しかし、彼の意図に反して、アルコホリズムはすべてγ型であるという解釈を広める結果になりました。

翻ってAAは、アルコホリズムは一つのタイプしかないという主張をしています。酒のコントロールを失い、そのコントロールは一生取り戻すことはなく、解決は断酒しかない(断酒を続けるために12ステップをやる)。一方で、酒でトラブルを起こしている人が、全員アルコホーリックだとも言っていません。

ビッグブックのp.31では、「大酒飲み」と「本物のアルコホーリク」を分けています。大酒飲みの中には酒をやめるのが困難で医者の世話にならなければ止められない者もいる、とあります。ジェリネク博士の分類で言えば、γ型以外のアルコホーリックでしょう。一方「本物のアルコホーリク」は、霊的な手段がないと助からないとしています。そして「本物のアルコホーリク」とは、シルクワース博士の描き出した「渇望現象」を持つ人たちを示しています。

僕は以前から、アルコールを乱用している人すべてに「アルコール依存症」とか「アルコホーリック」というラベルを貼るのはやめたほうが良いと主張してきました。境界性人格障害や統合失調症の人が症状としてアルコール乱用をするのは、いわゆるアルコール依存症の人たちの問題とは違っています。

また、ここ数年ビッグブックのやり方で12ステップを行っていると、明確な渇望現象を持たないAAメンバーの存在に気づかされます。自らの渇望の経験を捉えることができないということは、基本中の基本となるステップ1を理解することが難しい人たちです。

こうした「本物ではないアルコホーリク」がAAに存在していることに以前から気がついていた人もいたはずです。

一つは、DSMのような操作的な診断基準に従って、アルコール乱用があればその原因を問わずに「アルコール依存症」の病名を与え、自助グループを薦める医療機関の問題。もう一つは、12の伝統に従って「酒をやめたい」のなら誰でもメンバーになれるというAAの姿勢です。

僕は日本を訪れているシカゴのAAメンバーと一緒に食事をしたとき、「シカゴのAAにも本物じゃない人たちはいるか?」と尋ねました。相手の答えは「もちろんだとも」でした。でも、そういう人たちはAAに長居はしない。せいぜい2〜3年もすれば消えてしまうよ。だって他のメンバーと話が合わないからね。という話でした。

AAはメンバーになる条件として「酒をやめたい」という気持ち以外は要求しません。そうやって否認を伴いがちなアルコホーリックを幅広く受け入れられるようにしています。一方で、ミーティングではアルコールの問題を分かち合うことで、対象外の人たちがふるい落とされる仕組みになっているというわけです。少なくとも海の向こうの地では、そのふるいが有効に働いているようです。日本ではどうなのでしょう。

AAは12ステップを使って酒をやめ続ける団体です。その原則は変えることはできません。僕は5年ほど前からビッグブックを使った12ステップのやり方でスポンサーシップを行っています。その経験から、本物のアルコホーリック(ジェリネク博士のγ型)に対して、12ステップは極めて有効だと考えています。

しかし、前述のようにAAには本物ではないタイプもいます。ハッキリした渇望の経験を持たなかったり、別の原因で酒を飲んできた人たちには、12ステップの効果はあやふやです。むしろ別の方法のほうが良いこともしばしばです。薬物やギャンブルについてもおそらく同じ事は言えるでしょう。

最近では「これが12ステップの限界なのだ」と考えています。12ステップは有効な治療法です。しかし、どんな薬だって対象の病気以外には効きません。風邪の人に、高血圧や糖尿の薬を出す医者はいないでしょう。むしろ、「この薬はどんな病気にも効きます」と言えば、怪しい話になってしまいます。

今の日本で、12ステップの効果は過小評価されていると思います。伝言ゲーム的な述べ伝えによってプログラムが歪曲され曖昧化したのが原因でしょう。しかし、それだけでなく、対象をむやみに広げすぎたのもいけなかったのではないかと考えています。ビッグブックというテキストに忠実に、対象を絞って適用していけば、高い効果が得られて評価も変えられると信じています。

AAはどうあるべきなのか。本物であるかどうかを問わず、酒の問題を抱えた人を広く受け入れる団体になるべきなのか。伝統では「酒をやめたい」という願望さえあればメンバーになれるとしています。ただ、AAに詳しい人なら感じているでしょうが、AAの主張にはしばしば矛盾めいたことが含まれています。同じ12の伝統で、AAはアルコホリズムに苦しむ人を対象にしていると言っており、AAがアルコホリズムと言っているものは、単なるアルコール乱用とは違うものです。

AAは、12ステップ以外のやり方も取り入れて、本物以外でも、アルコール乱用者であればどんなタイプにでも有効な団体になるべきでしょうか。僕はそうは思いません。むしろそれは、本物タイプ(γ型)にも、それ以外にも役に立たない団体になってしまうと思います。「靴屋よ、なんじの本分をはみ出すな」です。

他のタイプは、他のやり方をする団体に任せて応援していけば良いのです。ビル・Wも書いているように、どんな酒飲みであれ「AAに来なかったという理由で発狂したり、死んでしまったりしていいわけではない」のです。同じようにアルコールやアディクションの問題に取り組んでいる「友人」たちの存在に対して敬意を持つべきだと思います。

田舎に行くと「洋食屋」の看板を掲げながら、メニューにはカレーも寿司もラーメンもあるような店もあるけど、たいてい美味しくなくて、いつのまにか閉店しているものですよ。


2012年05月29日(火) 生活保護について

テレビのワイドショーを見ている余裕もありませんが、この一週間は芸能人の母親が生活保護を受給してどうのこうのと騒がれていたようです。

僕の住む長野県は全国的に見て生活保護の受給率が低い県のようです。
少々データが古いのですが、分かりやすい図があります。

図録▽都道府県別生活保護率
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/7347.html

生活保護率(人口千人あたりの受給率)の高いところは、北海道・京阪神・九州北部・沖縄です。大阪と言えば最近新しい知事が何かと騒がしいところです。

上に挙げたページには、生活保護率と失業率の相関図もあります。仕事がなければ収入がない人が増えてしまうのは当たり前で、生活保護受給者の増加を語るには、経済政策の話をしなければならないのに、なぜか福祉政策の話にすり替えられてしまっています。

また、北海道と沖縄の失業率が高いのは、国の隅っこだからです。人もモノも国の真ん中に集まるので、隅のほうは経済が不活発になってしまいがちです。これを解消するには、国境を越えて経済活動が活発になればいいわけで、ロシアとの関係が改善されたり、東シナ海の緊張が緩まればいいわけですが、外交と福祉政策を関連づけて考える人は少ないものです。

こうした事情を除けば、一般に都市部では生活保護率が高く、田舎では低くなります。田舎は親子同居が多くて親族による生活扶助が成り立ちやすかったり、生活に自動車が必須で生活保護が受給しにくかったりする事情があります。都市部だと、やはり東京・大阪・福岡は受給率が高くなっています。不思議なのは愛知の受給率の低さです。これは東海地方は自動車産業が活発なのと、名古屋も意外とイナカなのかもしれません。

さて、生活保護の人にとってはAAミーティングに行く電車代も大きな負担です。長野でも数は少ないけれど生活保護受給のAAメンバーがいて、交通費が大変だと聞きました。そこで「AAミーティングに通う電車代だったら生活保護から出してもらえるはずだ」と伝えてあげました。

ところが、生活困窮者の支援機関の人も、行政の窓口も、そのことを知らなかったそうです(調べてもらったらちゃんとそういう規則があった)。厚生労働省の局長通達に

「生活保護法による保護の実施要領について」(生活保護実施要領)
http://wwwhourei.mhlw.go.jp/hourei/doc/tsuchi/T110721Q0010.pdf

というのがあります。

生活保護は基準生活費のほかに、家賃や子供の費用のような加算がいろいろあるのですが、一般生活費の(7)に移送費という項目があります。

これは受給者がいろんな理由で移動する際の交通費を支給する決まりです。例えば親の危篤や葬式とか、刑務所への面会とか、様々な場面が想定されています。該当する場合には(乗車船券を交付するなどなるべく現物支給で、という但し書きがありますが)、必要最小限度の交通費、宿泊料及び飲食物費を支給して良いことになっています。

実はその移送費の対象の中に(セ)という項目があります。全文を引用します。

(セ)次のいずれかに該当する場合であってそれがその世帯の自立のため必要かつ有効であると認められるとき。
a アルコール症若しくはその既往のある者又はその同一世帯員が、断酒を目的とする団体(以下「断酒会」という。)の活動を継続的に活用する場合
b アルコール症又はその既往のある者(同伴する同一世帯員を含む。)が、断酒会の実施する2泊3日以内の宿泊研修会(原則として当該都道府県内に限る。)に参加する場合
c 精神保健福祉センター、保健所等において精神保健福祉業務として行われる社会復帰相談指導事業等の対象者又はその同一世帯員が、その事業を継続的に活用する場合

AAも「断酒を目的とする団体(断酒会)」の範疇なので、受給者が継続的にAAミーティングに出る場合には、交通費を支給して良いわけです。

この移送費にも不正受給の問題もあります。AAに行ったと言って福祉事務所から移送費を受け取って、その金で酒を飲む人だっているので、福祉事務所からAAに「出席証明書を出せ」と要求が来るわけです。しかし、証明書を出すには相手が本人であることを確認しなくちゃなりませんが、AAは会員登録の要らない団体ですのに、生活保護の人だけ身元確認をするわけにはいきません。そこで「本人なり福祉事務所なりが、本人名のすでに書かれた用紙を用意してくれるのだったら、そこに署名捺印だけはしますよ」というスタンスになります。(それでも三文判を買って偽造して不正受給とか、しょうもない話は後を絶ちませんが)。

bの項目は、二泊三日以内の研修会だったら、費用を出すことも可、ということです。AAのラウンドアップとか宿泊付きのセミナーがそれに該当します。自治体によって、年に一回だけだったり、何度でも行きなさいだったり、また同一県内というのを拡大して隣県まで可だったりいろいろです。

この「断酒を目的とする団体」の解釈を拡大して、薬物依存の人がNAミーティングに通う費用を出してもらっているそうです。例えばダルク入所中の生活保護受給者が、ダルク外のNAに通う場合とか。

ともあれ、生活保護の人がAAミーティングに通うのには移送費の受給が可能で、田舎に行くと福祉事務所の窓口の人でさえ、そんな項目があることを知らない、ということです。


2012年05月21日(月) すきま市場ばかり開拓したがる日本のAA

竹内達雄先生とのお話の続きです。

日本にはアルコール依存症者が80万人いる、という数字があります。

これは、2004年に厚生労働省研究班の発表によるもので、3,500人を対象に調査を行ったところ、男性の1.9%、女性の0.1%がIDC-10の診断基準を満たしました。全体では0.9%で、これから80万人という数字がでてきます。(※「成人の飲酒実態と関連問題の予防に関する研究」主任研究者樋口進)

(ちなみに、判別にIDC-10ではなくKAST(久里浜式アルコール症スクリーニングテスト)を使うと、440万人という数字になります)。

一方、厚生労働省では「患者調査」ってのもやっています。
患者調査
http://www.mhlw.go.jp/toukei/list/10-20.html
これは病院や診療所をどんな患者が利用しているか3年ごとに調べているものです。最新の調査は2011年に行われましたが、まだ統計データが公表されていないので、2008年のを参照することにします。

統計表の中で、疾病の小分類まで分類しているものを見てみます。IDC-10の「アルコール使用<飲酒>による精神及び行動の障害」の小分類では、

推定入院患者数12.7千人
推定外来患者数 4.5千人

これは、調査の日(2008年10月のある一日)に全国の医療機関に入院しているアル中が12,700人ぐらいいること。その日に外来で受診したアル中が4,500人ぐらいいる、ということを示しています。

この二つの数字を合計すると、1万7千人ぐらいになります。外来については、別の日に受診する患者さんもいるので、

総患者数=入院患者数+初診外来患者数+再来外来患者数×平均診療間隔×調整係数(6/7)

という式を使って、総患者数を計算します。すると

総患者数50千人

つまり5万人という数字が出ます。(男性は4万1千人。女性が9千人です)。

アルコホリックが80万人いる中で、医療機関を受診しているのは5万人しかいない。1割以下です。残りの75万人はどうなのか。おそらく大多数は依存症の治療は受けていないでしょう。

この75万人をどうすればいいのか。

一つの案として、アルコール依存症で医者にかかっていなくても、その他の病気で医者にかかっている人はたくさんいるでしょう。だとすれば、内科医や産業医に対してアルコール依存症の啓発活動をすれば、早い段階でアディクションの専門医へと紹介してもらうことができるはずです。

「自殺者の3割から、血中に高濃度でアルコールが検出された」という調査がありました。アルコール依存症は自殺のリスクファクターです。だったら自殺予防と依存症の啓発を組み合わせることにすればいい。自殺予防のゲートキーパー教育で、「うつ」ばかりでなく、大酒飲みは自殺予備軍という知識を広める手もあります。

いやいやそもそも、アルコホリックを医療で治療する必要があるのかどうか。いまは過剰な医療化が批判される時代です。例えば中年ハゲにAGAなんて病名を付けて治療する必要があるのか。アルコホリズムが病気であり治療が必要だとしても、その治療を健康保険を使って医療機関で行う必要があるのかどうか。薬物療法中心の精神科医療のなかで、前述の5万人の中には、不要な薬を飲んでいる人が結構たくさんいるのじゃないか。特に、ベンゾジアゼピン系の常用量依存の問題は前にも書きました。

竹内先生との話から少し離れて、AAメンバーとして考えてみます。

AAの唯一の目的は、「いま苦しんでいるアルコホーリクにメッセージを運ぶこと」です。まだ酒をやめられない人に、酒をやめる手段を伝えていくことです。だから、AAメンバーは、アルコホリックが入院している病院を訪問し、患者さん相手に話をします。最近ではそれは、病院の治療プログラムに組み入れられることが多くなり、AAがやっていることなのか、病院がやっていることなのか、区別が曖昧になっています。

そして、AAメンバーは、この「病院を訪問して患者さん相手に話をすること」が、AAのメッセージ活動そのものだと考えるようになっています。(もちろんそれは勘違いですが、今回はその話ではなくて)。

いつからAAは、メッセージを運ぶ先を「医療機関に限定」してしまったのでしょう。そこには80万人のアルコホリックのうち、わずか5万人しかいないというのに。その5万人がすべてだと思ってしまっています。75万人というボリュームゾーンを避け、5万人のニッチ市場?の開拓に熱心なのが日本のAAです。

日本のAAメンバー数が増えないのには様々な理由がありますが、メッセージを運ぶ相手を限定してしまっているのも一つの大きな原因でしょう。75万人という手つかずのターゲットを相手にすれば、おのずと結果は変わってくるはずです。

具体的にどうすればいいのか?

例えば、アメリカのAAは報道メディアとの協力関係を重視してきました。これを見習うこともできます。AAでは、ほぼ毎週末、どこかでオープンスピーカーズミーティングやセミナーが開かれ、何十人、何百人というメンバーが集まっています。しかし、そうしたイベントの広報活動は、ほぼAA内部に留まっているか、せいぜい前述の医療機関にまで知らされるに過ぎません。

それを変えましょう。地元のローカル新聞に頼んで、イベント告知欄に載せてもらいます。また、記者にイベントの取材をしてもらっても良いでしょう。すると酒の問題で困っている人が、その新聞に目をとめて、会場まで足を運んでくる、ということが実際に起きます。その人がその後AAにつながってくれるかどうかは分かりませんが、それまでAAに縁もゆかりもなかった人に、AAの存在を認知してもらうことには成功します。

また、地元で人の集まる場所、公民館やスーパーなどの壁にある掲示板に、AAの存在を知らせるポスターを貼っているメンバーもいます。それを見た人たちが、医療機関にかかる前にAAに来たって良いのです。わざわざ医者にかかるほど重症化するまで放置しておく必要はありません。

はたまた、昨今では各地でアディクションフォーラムやアディクションセミナーという名前で、アルコールの問題だけに限らず、様々なアディクションの問題を取り扱い、社会にアピールするイベントが行われています。そうした外部イベントに参加するのも手です。

このように、75万人、いやもっと多くの人たちにアクセスする手段はたくさんあります。ここに書いた以外の手段もいくらでもあるでしょう。それも「AAのメッセージを運ぶこと」であり、AAの存在目的そのものです。

なのに、日本のAAメンバーは病院を訪問することばかりに熱心であり、また仲間内の秘密結社的なAAイベントを運営するのに熱心であり、他のことには目を向けないばかりか、今までになかった提案をすると「それはAAのやり方じゃない」などといってAAの存在目的そのものを否定するような発言が飛び出してきたりします。

まったくやれやれです。


2012年05月14日(月) 外在化・内在化

週末には実家で田植えが行われていたはずですが、土日とも東京・横浜にいたのでまったく手伝えませんでした。最近、(当事者)仲間からばかりでなく、援助職の方からもこの雑記を「読んでます」と言われることがたびたびあり、うかつなことを書かないように気をつけておかなくちゃ、という気持ちでいます。ただ、雑記の更新間隔がのびているのは、単に忙しいのが理由です。

しばらく前のことですが、某所で竹内達夫先生と話をしていました。

僕は、12ステップは基本に忠実にやること、つまりビッグブックに書かれたようにやることで、ステップの有効性が高まると考えています。それは例えば「本能」という概念を使うことや、表を使った棚卸しをやることです。それについては実績も上がっているので心配していません。

ところが、ビッグブックに忠実にやろうとすると、それについて来られない人たちが出てきてしまう悩みもあります。ジョー・マキューの作ったリカバリー・ダイナミクスは、12ステップを視覚化・構造化するテクニックで分かりやすく伝えています。これには間口を広める効果が確かにあります。それでもやっぱり、誰でもオッケーというわけにはいきません。

12ステップは誰にでも効果があるわけではない・・というのは冷徹な事実です。ビル・Wはその事実と向き合い、対応策を見いだそうとした人です。霊的体験こそが回復のカギだと信じた彼は、それに似た体験をもたらすLSDに期待をかけ、実際にLSDユーザーになり人に勧めてもいました。(当時はLSDは合法だったものの、AAの評判に関わると言われて撤回しましたが)。

ビッグブックのやり方が良いとしても、有効性を高めようと努力するほど、そこから外れてしまう人たちの存在が際立っていきます。何か別の手段が必要なのじゃないか。

その時に僕が気になっていたのが、べてる式当事者研究です。「当事者研究」は北海道浦河にある精神障害者のグループホームべてるの家で作られたアプローチです。

べてるの家というと、「降りていく生き方」や「幻覚妄想大会」という言葉ばかりが注目されますが、実は12ステップの流れを汲む「8ステップ」というものを持っています。もともと統合失調の分野では、SA(スキゾフレニックス・アノニマス)というAA類似のグループがあって、その流れを汲んでいます。

当事者研究は、以前は自己研究と言われていたように、自分で自分の病気のことを研究します。ここで言う病気とは、統合失調の症状(幻聴など)に限らず、生活上の困難や、対人関係の問題を含みます。自分一人で研究し、症状に名前(病名)をつけ、解決策を探っていくやり方もあるそうですが、普通は、たとえばホワイトボードを使って開示し、同じ立場の仲間や支援者といっしょに解決策を考えていきます。

僕が当事者研究に興味を持ったのは、これが発達障害の人の支援の現場で使われていることを知ったのがきっかけです。その場に依存症の人も仲間として参加していると聞いたとき、「なんだ、じゃあこれをアディクションの人に使えば良いじゃないか」と考えたのです。

統合失調であれ、発達障害であれ、またアディクションであれ、本人は日常生活で様々な困難を抱えていますが、それをうまく言葉にして表現できるとは限りません。なので解決の手助けを受けることもできず、自分なりの対処方法(大声を上げるとか、過食するとか、ひきこもるとか)に留まってしまっています。当事者研究はアセスメントに使える道具です。

12ステップにしても、当事者研究にしても、キーワードは「外在化」だと思います。その人の抱える問題がその人の「中」に留まっている限り、自分なりの対処方法しか取れず、解決に導けません。12ステップでは、棚卸し表を使って、問題を「外」に取り出します(外在化する)。そしてそれをスポンサーと一緒に分析します。スポンサーが他者の視点や違った対処方法をを提供してくれます。当事者研究では、ホワイトボードを使って外在化を行い、仲間(ピア)やコーディネーターと一緒に分析し、違った対処手段を提供します。

12ステップと当事者研究。細部は違っても、大まかな構造は同じではないか。

という話をしていたら、竹内先生から、「専門家以外で外在化という言葉を使う人は初めてだ」と言われました。僕はそれまで外在化という言葉が専門用語だとは知りませんでした。というのも、外在・内在というのは辞書に載っている一般用語だし、コンピューター・エンジニアリグのコンサルティングでも問題の外在化という言葉は使うからです(あこれは専門用語か)。おそらく、外在化・内在化というのは心理学の用語なのでしょうかね。

僕は心理の勉強をしたことはなく、たまたま12ステップと当事者研究の類似性を考えているうちに、「外在化」という概念を思いついただけなので、それを専門用語と言われてちょっとビックリした次第です。

残念ながら僕は当事者研究を学んで、それをアディクションの分野に普及させる活動をやっている余裕がありません。興味を持たれた方は、ぜひやってみていただきたいと思います。(アイデア料をよこせとは言いません)。12ステップが統合失調のコミュニティに伝わり、そこで当事者研究という形に変わって戻ってきて、ふたたびアディクション分野の役に立つとするなら、これは素晴らしいことではありませんか?

(アディクションに限らず、欧米のものを良しとする風潮ばかりで嫌になります。海外から講師呼んで、高い金払って。それがすごいことみたいに。もっと日本発のアプローチがあっていいんじゃないかと思いますね)

雑記をここで締めくくってもいいのですが、ちょっと追加します。

外在化と同じように大切なのは「内在化」です。棚卸し表をスポンサーと一緒に見ると、自分の欠点が見えてきます。それはかなり衝撃的な体験だったりするので、「ステップをやった」という実感を持たせてくれます。けれど、そこでスポンサーが提供してくれた他者の視点や、自分とは違った対処方法について、「そうかそういう見方もあるのか」と感心しているだけでは、新しい考え方や新しい行動は身につきません。

欠点を修正しようという根気強い努力が必要になります。それがステップ10です。新しい考え方や新しい行動が習慣化するまで続ける。これは新しい考え方や行動が、「外」から「中」に取り込まれる内在化のプロセスです。

ステップをやった。その時自分は変わった気がする。でもやがて元に戻ってしまった・・・。そういう人はこの内在化に失敗していると言えます。外在化(つまり棚卸し)がかなりいい加減でも、内在化がうまくいけばその人は変わります。でも素晴らしい棚卸しをしても、内在化がうまくいかなければ変化(=回復)は起こってくれません。

最後に関係ない話を。以前「ミーティングで話をすると回復する」とか「ライフストーリー形式の棚卸し」はナラティブ・セラピーの影響を受けているのじゃないか、という考えを述べました。とは言うものの、僕はナラティブ・セラピーの詳しいことは知らずにそう言っているだけです。こんなものを見つけました。

ジョン・ウィンズレイド博士特別ワークショップ
ナラティヴ・セラピーによる心理援助の進め方
http://www.jabp.jp/information/index3.html
う〜ん、5千円。往復の高速バス代も入れると1万円を越えますし、平日だから仕事も休まないと・・。言っているそばから欧米のものに惹かれているし・・。

竹内先生の来年の講演を打診したら「生きているかわからないし」と言われてしまいました。先生、そんなこと言わないで、いつまでも元気でいてください。


2012年05月07日(月) サービス

ひさしぶりの雑記更新。

AAのマークとして知られている、丸と三角のシンボル。


このシンボル、実はアメリカ・カナダのAAでは使わなくなっているそうです。
AAは長年このシンボルを使い続け、AAの商標だと主張し、AA以外の団体が(主にAAメンバー向けの商品に)このシンボルを使うことを止めさせようとしてきました。しかし、調べてみると、実はこのシンボルはAA誕生以前から禁酒運動で使われているもので、AAが権利を主張する根拠がないことがわかり、シンボルを使うことそのものをやめてしまいました。(元ネタはこちら)。

考えてみると、これはすごいことです。AAとAA以外のものを区別するために、他の団体にシンボルを使わせない努力をやめ、自分たちがシンボルを使わないようにした。そのことで「このシンボルがついているものはAAではない」とハッキリしたわけですから。

△の各辺には、RECOVERY(回復)、UNITY(一体性)、SERVICE(サービス)と名前がついています。今回はその「サービス」についての話です。

以前掲示板にブラジル在住の日系人メンバーがいらしたのですが、彼はサービス活動のことを「奉仕活動」と呼んでいました。

サービス活動とは何か? それは「新しい人にAAのメッセージを伝えるために必要なすべてのこと」を指すのだそうです。

大仰に考える必要はありません。例えば新しい人にメッセージを伝えるためには、まずAAが存在し続けなければなりません。だから、ミーティング会場を開け続けること、ポットにお湯を用意すること、茶碗を洗うこと、椅子を並べること、これらすべてAAのサービス活動です。

誰もいなければミーティングが成立しませんから、ミーティングに出席し、自分の番が来たらしゃべること、これもサービス活動です。スポンサーとして飲まないためのアドバイスをしたり、12ステップを伝えることもサービス活動です。

そうすると、熱心なAAメンバーがやっていることは、そのすべてがAAのサービス活動だと言えます。自分とそのまわりの人たちのことだけを考えるのなら、それだけで十分だと言えます。

しかし、まだAAの存在すら知らないアルコホーリックにAAのことを知らせたり、これからアルコホーリックになる運命を背負って生まれてくる赤ん坊のために、何十年も先にもちゃんとAAが存在し続けることを保証するためには、それだけで十分とは言えません。

そのために、例えばグループから代表者を出し、いくつかのグループで集まって活動することも必要です。また、その中からさらに選挙で人を選び、より広いエリアで、あるいは全国レベルで活動してもらうも必要になります。外部の人がAAに連絡するためのオフィスを構えたり、出版物を出したり、他の国のAAと連絡を取り合うことも必要になります。

通常は、グループを越えたこうした活動に対して「サービス活動」という言葉を使います。AAという団体は、このサービスが活発に動いている団体だと思います。

しかし、このサービスの分野は人材不足だと言われます。今に始まったことではなく、10年前からそう言われています。全国レベルでは評議員のなり手が足らず、欠員が出ています。1990年代半ばにAAのサービス機構を整備した人たちは、将来AAメンバーが増え、サービス活動がますます活発になることを予想して、すこし大きめの(つまりたくさん人数が必要な)機構を作ったそうです。いわば子供の成長を見越して、すこし大きめの服を買うようなものでしょうか。それが裏目に出て、熱心な人材を早々に使い果たし、なり手集めに汲々とするようになってしまったのが日本のAAの現状です。だから、サービス構成を縮小すべきだという意見も出てきています。

役割のなり手が足りないのは全国レベルだけではありません。地域や地区のレベルでも役割の引き受け手が足りず、一部のメンバーに負担が偏っています。

グループ数は増え、AAメンバーの数も増えているはずなのに、サービスの人手不足・人材不足は変わりません。これはどうしたことか。「タダでもらったものはタダで返せ」とか「最近のメンバーは感謝が足りない」と嘆く古株もいます。日本のAAメンバーは、自分が飲まないだけで満足し、他の人の手助けをする美徳を失ってしまったのでしょうか。

僕は「サービス活動に参加することの素晴らしさ」を訴えるだけでは、この状況は打破できないと考えています。問題はもっと根源的なところにある、と。

今は使われなくなったAAの丸と三角のシンボル。その三角形の各辺には、回復・一体性・サービスの言葉があてられています。そして、三角形の底辺にあるのは「回復」です。回復が一体性とサービスを支えているのです。回復あってこその一体性、回復あってこそのサービスです。

日本のAA共同体でサービスの力が弱まっているのは、実は12ステップの力が弱まったことの表れです。AAグループ数、AAメンバー数は増えていても、ステップによる回復を経ていないメンバーが増えなければ、サービスはいつも人不足のままでしょう。

ジョー・マキューの本には、「人は霊的目覚めを体験すると、それを他の人に伝えたくなる」とあります。これはたまたまジョーの本の言葉ですが、ジョーだけでなく、12ステップを経験した多くのメンバーの実感です。

感謝ってのは言われてするものじゃない。内側から勝手にわき出るものです。スピリチュアルな回復を経験した人が、それを新しい人に伝えて手助けしたいと思うのは当然のことです。そうして自分の周りの人への奉仕をするうちに、それだけでは足りないことに気づき、グループを越えて「(いわゆる)サービス活動」に参加していくのが本筋でしょう。

ジョーの本には、人に「生き方」を伝え教えることは手間がかかるので、つい人は「ルール」を作って人に押しつけることで済まそうとする、とあります。しかし、ルールを作ったところで、人がそこから逸脱することは避けられません。刑罰をいくら厳しくしても、刑務所に入る人はなくならないのです。ルールではなく、生き方を教える必要がある。それが子供のしつけであり、また本来の教育の姿です。そして、12ステップはもちろんルールではなく生き方です。

最近、日本のAAの様々なレベルで出てくる議題や話題は「ルール作り」に関するものが増えているのじゃないでしょうか。それもまた、12ステップの力が弱まっていることの表れであると感じています。

どうすればいいのか? もちろん、答えはシンプルなものです。


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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