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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2012年01月20日(金) 共依存について(その4) 共依存概念を少し批判的に捉え直してみる試みをさらに続けてみます。
共依存者がイネイブリングをやめれば、本人は依存を続けることができず、底つきを経て回復する。これがイネイブリング理論です。シェフはこの考えを男性優位社会に適用し、女性たちが支えているからこそ男性優位社会が存続しており、女性が支えることを拒否すれば、それは続かないと主張しました。
僕のような素人にはこれはフェミニズム的な思想に思えます。しかし、フェミニズム的観点からシェフの考えに反論も提起されています。
前にも書いたように、法律や社会制度という把握しやすい男女差別が減り、表面上の平等が実現されたいま、フェミニズムはむしろ目に見えにくい差別を扱うようになっています。そこを注意しないと表面的な議論に終わってしまいます。
フェミニズムは、何が何でも男女はまったく同じであると主張しているわけではありません。むしろ男女の性差を認めています。ただ、男と女に与えられた社会的役割(性的分業)は、前近代的な思想に汚染されているし、政治的な意図も含まれているわけで、「女性は自分を犠牲にして夫や子に尽くせ」という話を無批判に受け入れることは到底できないというわけです。
(男女の性差を認めず、画一的に性差を解体しようとするジェンダーフリー論は日本固有の一過的な政策にすぎなかったのに、しばしばフェミニズムと混同されます)。
女性は出産や育児を通じて「他者の世話をする」という歴史的な役割を負っており、それは「女性らしさ」の一部です。そしてフェミニズムは、この世話の与え手(care taker/care giver)としての女らしさを否定してはいません。(女らしさを発揮した職業が、男性職業より報酬が少なく低く扱われることは多いに問題にされる)。
しかるに共依存概念は、家族の世話をする「女性らしさ」が病気であると教え、飲んで行われた夫の暴力や虐待を免責してしまいます(夫の失態は、妻がイネイブリングを続けたからだと、責任を妻側に回してしまうから)。社会的な女性役割から離れられない家族に否定的な自己イメージをべったり貼り付けてしまいます。これはむしろ問題の解決を困難にしています。
さらには、共依存状態から脱して向かうべき正常な状態とは何か。それまで男性に支配されていた女性が、世話焼きを拒否することです。それによって一見自由を獲得するように見えますが、実は自らの女性性を否定して男性側つまり支配する側に回ることです。これは男性性こそ素晴らしいという男性優位社会を追認しているにすぎず、女性的価値や女性らしさをいっそう貶めています。
このように「世話焼き」をすることの価値観の否定は、それまでフェミニストが営々と築き上げてきた政治的成果を台無しにするものとして、批判の対象となりました。
こうしてみると、共依存概念は素人には一見フェミニズム的思想に沿ったもののように見えるのですが、それは勘違いで、むしろ反フェミニズムであることがわかります。
共依存概念は、精神科医(その多くは男性)が、治療失敗の責任を依存症者の妻(むろん女性)になすりつけるために使われたに過ぎない、という批判すら耳にします。男たちはそういうことを無邪気かつ無自覚にやってしまう、というわけです。
まだまだ続きます。
2012年01月19日(木) 共依存について(その3) 今回は共依存概念を少し批判的に捉え直してみる試みです。ただし、僕の関心の対象はアディクションのケアであり、社会学やフェミニズムに興味はありませんし、そんな立場から論じても恥ずかしいばかりです。したがって、共依存概念がアディクションのケアの役に立ってきたか、という一点から考えてみます。
ヘリコバクター・ピロリという菌が胃の中に住んでいると、胃潰瘍や胃ガンの原因になることが分かっています。ならば、ピロリ菌への感染が判明した段階で、抗生物質を飲んで除菌すれば胃ガンになる可能性を減らすことができます。けれど、日本ではピロリの除菌に健康保険は使えず、費用は全額自己負担になります。ピロリ菌の感染者があまりにも多いため(6割とか)、その全員の除菌費用を負担したら健康保険制度が破綻してしまうからです。
さて共依存の明確な定義はありませんが、それでもそれを病気として治療しようという試みはありました。アメリカのアディクション治療施設の中には、共依存の治療コースを設け、保険会社の支払いを取り付けたところも複数ありました。しかし、やがて保険会社が支払いを拒否するようになり、治療コースも閉じられてしまいました。その理由は前述のピロリと同じです。
なにかを病気として治療の対象にするには、それが少数に限られなくてはなりません。たとえば老眼鏡を保険で負担することはできません。
アメリカ人のクラウス(Sharon Wegscheider-Cruse)は、アルコホーリクの親や祖父母を持つ人や、結婚によってアルコホーリクと生活する人、これに加えて「感情障害的な家族に育てられた人」も含めた結果、実に人口の96%が共依存症者であるという認識を示しました。もし、人口の多くがその問題を抱えているとしたら、それを病気として保険で治療することはできません。
これは一つの大きな教訓を与えてくれます。1990年代のACブームの頃、日本人の多くはAC(アダルトチルドレン)であるという主張がなされました。それはクラウスの主張を受けてのことに違いありません。また、最近ドメスティック・バイオレンス(DV)が注目されるにあたって、「日本人の多くの家庭にDVがある」とか、「アディクションの家庭には必ずDVがある」という主張がかいま見られるようになりました。
問題が普遍的に存在しているという主張は、注目を集めるには相応しい戦略かも知れません。メディアに露出するにはセンセーショナルであるほうがいい。けれど、本当に支援や治療を必要としている人たちが、支援を得る妨げになる可能性も大です。したがって、そうした主張は厳に慎まなければならないと考えていますし、それは共依存についても言えることです。(僕はアルコール依存についても普遍的にたくさん存在するという主張はしないほうが良いと思います)。
ACブームが一過性に終わってしまったのも、この普遍化がいけなかったのだと考えています。「人は多かれ少なかれ皆ACである」ということにしてしまうと、ACは治療や回復の対象ではなくなってしまいます。こうして本当に回復を必要としているアダルト・チルドレンのための支援体制が作られないままにブームが過ぎてしまいました。それで得をしたのは、ACという言葉で注目を集めた一部の医者や支援者だけだったのではないかと思います。
共依存――この場合の共依存は社会に普遍的なものではなく、純粋にアディクションの家族の問題として――共依存は病気だと言いたいわけではありません。むしろ病気という概念は相応しくないでしょう。しかし、アディクションの問題を抱えた家族が何らかの支援を必要としていることは確かです。その支援体制を作るためには公的な資金が投入される必要があります。公的資金(たとえば税金)といえども無尽蔵にあるわけではありませんから、常に対象を限定しなければなりません。
共依存概念をアディクションの家族に限定せず、社会全体に拡大したことは、共依存を治療なり支援する対象から外す結果を生んでしまいました。共依存の社会学化の弊害とも言えます。社会の構造を論じることが、その中で病んだ個人をケアすることにつながっていません。
ただ僕は社会学が共依存を取り扱ったことが悪いとは言いません。拡大した共依存概念をアディクションの現場に無批判に逆輸入したのがいけなかったのだと言いたいのです。
さらに続きます。
2012年01月18日(水) 共依存について(その2) さて、この文章は、疑似アルコホリズム概念が共依存概念に発展する様を追うことで、共依存を理解する試みです。論文的な論考をするのではなく、僕が学んでいく過程を少々の編集のみで垂れ流しているだけです。
アメリカではアディクションという言葉はアルコールと薬物のみを示すのだそうです。ギャンブル・買い物・セックスなどはアディクションのカテゴリに入れられていません。それはおそらく保険会社が、アルコール・薬物以外の依存症の治療に金を払いたがらないからでしょう。(アメリカの有名な依存症治療施設は一ヶ月百数十万円と高価ですが、保険でカバーできますし、逆に保険で払える人しか相手にしていないのだと思われます)。
しかし、金が絡む話を除けば、アディクション概念は着実にアルコール・薬物以外にも広がっていきました。(DSM-5ではギャンブル依存が採用され、ネット依存も候補に挙がっています)。
ここではアン・ウィルソン・シェフの『嗜癖する社会』という有名な本の内容を取り上げます。シェフはまずアディクションを2種類に分類しました。
・物質嗜癖(アルコール・ドラッグ・ニコチン・カフェイン・食べ物)
・プロセス嗜癖(お金を貯める・ギャンブル・セックス・仕事・宗教・心配)
さらにシェフは三番目のジャンルとして共依存を提唱していますが、前者二つと同列に論じてはいません。つまりアディクションを物質依存・プロセス依存・共依存(関係性依存)という三つに分類するのは、シェフの考えに従えば正しくないことになります。
共依存概念を学んでいくときにフェミニズムのことは避けて通れません。フェミニズムは女性に対する差別をなくし、抑圧されていた女性の権利を拡大していこうという思想・運動です。
まず最初に、19世紀から20世紀前半に、女性の投票権や財産権などの法的権利に関わる運動がありました。そう、昔は政治に参加できるのは男性だけで、女性は財産を持つことすら許されなかったのです。権利獲得が実現されてフェミニズムはいったん下火になるのですが、第二次大戦後になって女性が外で働く権利や男女の賃金格差など、単に「女性が参加する権利」だけではなく、男女格差の解消を求めた運動がありました。ウーマン・リブ運動を憶えている人もいるでしょうか。さらに1970年代以降は、例えば男女の昇進格差(ガラスの天井)のように目に見えにくい、意識しづらい男女格差の問題が取り上げられるようになり、運動が多様化して現在に至っています。
シェフは前著で白人男性システム・反応女性システムという概念を提唱しました。世の中(この場合はアメリカ社会)は白人男性システムによって支配されている。白人男性たちは名声と権力を求めてパワーゲームに耽り、他者を支配することに熱中している。彼らはその熱中によって自らの感情を抑圧した病的な状態に陥っている。また、そうした男性たちを支えることを自らの役目として喜びを感じる女性たちが反応女性システムを作っており、この相補的な二つのシステムによって病んだ社会が維持されている、というのです。
この状態を脱するには、まず女性たちが従属的な立場に甘んじず、男性を支えることを拒否すればいい。女性による支えを失ってしまえば、白人男性システムは維持できなくなり、男たちも本来の自分の人生について考えざるを得なくなる・・。という理屈です。
つまりカウンセラーだったシェフは、依存症に関するイネイブリング理論を、男性優位の社会とそれを支える女性たちの構図に当てはめて、女性たちが男性を支えることを止めることが社会の変革につながると主張しました。
さらに『嗜癖する社会』では、嗜癖システムという言葉を用い、嗜癖者(依存症者)の行動様式は、白人男性システムのそれと同じだと主張しています。つまり嗜癖システム=男性優位社会であり、嗜癖者の周りでは嗜癖行為を支えている共依存者(おもに女性)がイネイブリング行為を止めれば、依存症者は行き詰まって、本来の生き方に戻っていくはずだ、という理屈です。
シェフは依存症者と家族のイネイブラーの関係は、社会の縮図であると考えました。疑似アルコホリズムの時代には、依存症者本人が一次的に病んでおり、その影響を受けて家族が二次的に病むという構図でした。これが共依存概念になると、まず社会そのものが嗜癖的かつ共依存的であり(これが一次的)、その中に生きる人が影響を受けて物質嗜癖・プロセス嗜癖を二次的に発症する、というコペルニクス的発想転換が起きました。
また、それまで依存症者を抱える一家の病気としての概念だったアディクションが、社会全体の問題として社会学の対象となっていきました。そんなわけで、現在共依存という名目で出版される本を探すと、それを個人の問題としてではなく、社会の問題として論じているものが目立ってくるわけです。
さて、次回は、こうして成立した共依存概念を少し批判的に捉え直してみる試みです。
2012年01月17日(火) 共依存について(その1) こんな質問をいただきました。
「共依存のステップ1の無力って、どう説明すれば分かりやすいのでしょう?」
依存症の世界に首をつっこんで以来、共依存は依存症者の家族がなるものだと聞かされてきました。僕自身は依存症の本人で、本人用のAAというグループに属しているので、家族のことについては強い関心を持っていませんでした。もちろん相談を受けるなど家族への対応もしていますが、その回復過程については家族グループにお任せしていました。餅は餅屋であり、本人が家族のプログラムに手を出すのは避けたほうが良いという判断です(逆も同様)。
ところがひとたびAAを離れて、12ステップ全般の話になると、とたんに「家族の無力ってどういうことか」という質問が投げかけられてきます。その質問に答えられる人がたくさんいたら、僕のところにお鉢が回ってくるはずがありません。どうやら、日本では依存症の本人への支援はそれなりに充実してきたとしても、家族への支援はまだまだなのではないか、と思うようになりました。そうなると、僕も少しは勉強しておかなければなりません。
さて、この「分かりやすい説明」という表現には背景があります。
僕自身アルコホーリクとしてAAに来て、ミーティングに参加しながら「自分はアルコールに負けたな」という感じを抱いていました。アルコールに対して無力を感じていました。しかし、無力感を持っていることと無力を理解し認めていること、この二つの間には距離があります(雲泥の差と言っても良い)。ところが、アルコールに対する無力とは何かを、当時の僕に説明してくれるAAメンバーはいませんでした。
もちろんビッグブックには無力の説明がきちんとありますが、(残念なことに)ビッグブックは決して分かりやすい教科書ではありません。
その後ずいぶん経ってたどりついたのが、Joe & Charlieであり、この二人が書いた "A Program For You" というステップの解説本でした。最近になって日本語訳が出ています。
「プログラム・フォー・ユー」
http://www.ieji.org/bbs/bbs.cgi?mode=view&th=6202
この本には無力の説明がたくさんページを割いて書かれています。それを読んで僕は「これは自分に当てはまる」と納得しました。この「納得できる分かりやすい説明」が求められているわけです。ジョーの他の著作、緑本(「ビッグブックのスポンサーシップ」)はスポンサー向けの本なので無力についての説明は詳しくありませんし、赤本(「回復のステップ」)にいたってはその説明はざっくり省かれています。
本人の無力と家族の無力は構造が違うのかもしれません。そして家族向けの「分かりやすい説明」というか納得できる説明がないからこそ、質問が発せられるのでしょう。
共依存の無力について知るには、まず共依存とは何かを知らなくてはなりません。というわけで、それについて調べてみることにしました。
まず共依存概念が成立するより前に、イネーブラー概念がありました。イネーブラーとは「可能にする人」という意味です。アルコホーリクは酩酊するにも時間を費やしますし、そこから離脱する(酔いが抜ける)にも時間がかかります。酒に多くの時間を費やすために、本来取るべき責任を放り出しています。その責任を肩代わりしたり、また本人の起こしたトラブルを後始末してくれる家族をイネーブラーと呼びました。そして、イネーブラーの存在が、飲酒の継続を可能にし、本人が問題に「直面」する邪魔をしているという説です。
イネーブラーの存在が本人の回復の妨げになるのなら、やめるように家族を教育すれば良いわけです。ところが、アルコホーリクの奥さんが、飲みながら働き続けるダンナの収入を必要としているなら、手助けをやめれば一家が経済的に困窮してしまいます。また、イネイブリングをやめたとて、すぐに本人が回復できるわけでもありません。さらには、家族の行動の中で病的なイネイブリングと健康な家事労働を簡単に区別することもできません。このようにイネイブリング理論は実はアディクションの現場ではそれほど役に立ってくれません。少なくとも、アディクションの問題はイネイブリング理論一本槍で解決できるほど生やさしいものではないと言えます。
1970年代に、コ・アルコホリズムやパラ・アルコホリズムという概念が成立しました。これはアルコール依存症(アルコホリズム)にかかった人と一緒に暮らしているせいで、家族も依存症本人と同様の考え方や行動が身に付いてしまう、つまり疑似的な依存症になってしまう、という考え方です。アダルト・チルドレンという概念もここで同時に成立しました。
本人がアルコールという毒に中(あた)ってアルコール中毒(=依存症)になるのならば、家族も依存症者という毒に中って中毒の症状が出て不思議ではありません。さながら壊れた原発が放射能を振りまいて被曝した人を具合悪くしていくように、飲み続ける(あるいは断酒しても未回復の)本人の振りまく毒によって家族が病んでしまうのです。「家族が疑似アルコホリズムになって、当人同様の行動をする」というこの考えは、現在のACAのプログラムにそのまま受け継がれています(アルコホーリクのほうのACAね)。
このコ・アルコホリズム/パラ・アルコホリズムという概念が、1980年代に「コ・デペンデンシ=共依存」という概念に発展するのですが、その過程で本質的な変化がいろいろ起きています。共依存概念を理解するには、その部分を知る必要があるのじゃないか・・・というわけで、次回に続きます。
2012年01月10日(火) 薬物依存症者のアルコール摂取 アディクションという観点から見たとき、アルコールとその他の薬物に違いはありません。なにしろ、エタノール(エチル・アルコール)も「薬物」の一種なのですから。
ではなぜアルコール依存症のグループ(AAとか)と、薬物依存症のグループ(NAなど)が別になっているのか。
アメリカにおけるアディクション治療は、禁酒法(Prohibition Law、1919〜1933年)以降に発展しました。この時代は麻薬の取り締まりが強化、厳罰化されていった時代でもあります。麻薬が止められない患者が医師の管理の下に少量の麻薬を使用する「維持療法」というものがあり、当時これを支持する医師も多かったのですが、厳罰化のあおりをくらって禁止されてしまいました。麻薬中毒者は治療を受けられずに刑罰を受け、一方アルコールへの禁止は弱まりアル中は自由に飲んでいました。
アルコールは社会に受け入れられ、麻薬は禁止されていた。この違いがアルコール依存と麻薬依存を分けることになりました。
世界的に見ると、どの薬物が許容され、どの薬物が禁止されるかは、国によって違います。イスラム教文化圏では飲酒は悪とされています。日本では大麻(マリファナ)は禁止されていますが、公然と販売されている国もあります(これもイスラム圏では禁止されており厳罰の対象)。
法律で禁止されているかどうかは、実は大した違いではありません。「俺はヤク中とは違う」と言っているアル中さんも、もし日本でアルコールが禁じられ、ハシシュが許容されていたら、立派な薬物乱用者になっていたことでしょう。
アメリカの治療施設では、アルコールも薬物も区別していません。区別する必要がないからです。
しかしビギナーにとっては、この違いは大きな違いです。アルコールを摂取した経験談と、覚醒剤を摂取した経験談には、表面的が違いがずいぶんあります。この違いに注目してしまうと、共感を得ることができません。ビギナーがやってきて、会場にいる他の人と自分が同じ問題を抱える「仲間」であると感じられなければ、その人はグループに定着できず、助けを得られないでしょう。(表面上の違いにとらわれず、共通の本質に気づくためにはビギナーの域を脱している必要があります)。
アルコールと薬物のグループが別にできたのは、ビギナーのために良かったと言えます。
薬物のグループというとNA(Narcotics Anonymous)が有名です。この Narcotics という言葉は麻薬という意味です。つまりアヘンを元に作られるモルヒネ、ヘロイン、コデインのことです。これはアルコールと同じダウナー(鎮静効果のある薬)です。
日本では薬物のグループが事実上NAしかないので、様々な薬物の人がすべてNAに集まるのですが、非合法薬物の筆頭が覚醒剤であるために、日本のNAは覚醒剤のグループといっても良いぐらいです。つまりアッパー(覚醒効果のある薬)のグループです。
アメリカでは薬物の種類ごとにグループが分かれています。NAのほかに、コカインの人はコカイン・アノニマス(CA)、大麻の人はマリファナ・アノニマス(MA)、処方薬の人はピルズ・アノニマス(PA)といった具合です。当然の事ながら、「コカイン依存のグループだから、ヘロインやるのはオッケー」ということはありません。グループは分かれていても、薬物という点では共通性があります。
余談になりますが、アメリカのAAとNAの親和性が高いのは同じダウナーのグループだからであり、日本のAAとNAの雰囲気が違うのはダウナーとアッパーの違いだという説があります。
さてさて、日本においてアルコール依存症になった人が、酒をやめて他の薬物に手を出すことはあまり心配されていません。それはヘロインやマリファナや覚醒剤が法律で禁止されており、入手性も悪いからです。(処方薬依存の問題はちょっと脇に置きます)。
逆に、薬物依存症になった人が、薬はやめたもののアルコールに手を出すことはどうでしょうか。何といってもアルコールは合法薬物であり、コンビニで買えるほど入手性良好です。そして、この問題はほとんど啓発されていません。薬物乱用で学校を中退した若者を引き取った大人が、一緒になってがんがん仕事をさせ、一緒にがんがん酒を飲んだりします(そして薬物が再発したり、今度はアル中になったりする)。
薬物依存症者にとってのアルコールの危険性はもっと強調されねばなりません。
NAのパンフレット「だれが、なにを、なぜ、どのように」に、こんな記述があります。
http://www.na.org/?ID=ips-jp-index
> アルコールは薬物ではないという考えは、非常に多くのアディクトを逆戻りに至らしめた。NAに来るまで、多くの人たちはアルコールは別のものだと思っていた。しかし、これはまちがいである。アルコールも薬物なのだ。私たちはアディクションという病気をもつ人間であり、回復のためにはいかなる薬物からも遠ざかっていなければならないのである。
ダルクのような薬物の施設では、施設利用者(つまり薬物依存症者)にアルコールを飲ませないことは徹底しています。しかし、それ以外のところではどうでしょう。覚醒剤依存の息子や娘を持つ親が、アルコールなら良いではないかと酒を飲ませた話はいくらでも聞きます。アディクションの観点ではなく、合法・非合法で判断してしまうミスです。
僕には薬物のスポンシーもいます。僕は彼が薬物だけでなく、アルコールの問題も抱えるまで、彼を手助けすることができませんでした。なぜなら、アルコールと薬は違うと「僕も」思っていたために、彼の飲酒を制止できなかったからです。彼は酒を飲み始めると(時間は長短あるもの)やがて薬も再発するというパターンを繰り返しました。飲酒は薬物再発の前駆症状であり、飲酒した時点で薬物もスリップとするべきでした。今では彼も回復していますが、若い時期の数年間を無駄にしたのには、僕の未熟さにも原因があります。忸怩たる思いがします。
ベンゾジアゼピン系の抗不安剤が依存を形成しやすいことは以前に書きました。しかし、処方薬よりアルコールのほうがより危険な存在です。一つの薬物の依存症になった人は、別の薬物の依存症にもなりやすく、すぐに多剤依存症へと発展してしまいます。一般の人々にとってアルコールはそれほど危険がないにしても、薬物依存症者にとっては再発の対象です。薬物の種類ごとにグループが分かれているのは、「俺はAという薬物の依存症だから、Bという薬物ならオッケーだ」と言わせるためではありません。
「薬物依存症は病気である」、そう捉えるのなら、病気としてアルコールと薬物の共通性に気づいて下さい。決して合法・非合法の問題にすり替えることのないように願いたいものです。どんな薬物を使ってきたのであれ、薬物依存症者がアルコールを飲むのは再発です。処方薬の取り扱いが難しいのは承知しています。なぜなら必要があって処方薬を飲んでいる人がいる以上、ゼロにすることはできないからです。しかし、酒を飲まなくても十分社会生活を送れることは、多くの回復したアル中が実証しています。その点、飲酒の可否について判断に悩む必要はありません。
もう一度ハッキリ言いましょう。どんな薬物を使ってきたのであれ、薬物依存症者がアルコールを飲むのは薬物依存症の再発です。
2012年01月04日(水) 発達障害と発達凸凹(その2) 前の雑記では、人には能力の発達の凸凹が誰にでもあることを述べました。
その凸凹の特定のパターン(主に自閉圏とADHD)について、社会的な不適合が起きていればこれを「発達障害」と呼び、起きていなければそれは障害とは呼べず「発達の凸凹」というのが相応しいという話をしました。
では、発達障害に至っていない凸凹レベルであれば、何も問題ないのか?
それについて、前掲の杉山先生の『発達障害のいま』の内容の一部や、その他のことも含めながら、書いておこうと思います。
凸凹レベルであれば、社会生活を送る上での不適合がないので、何もしなくて良いことになります。しかし、凸凹が激しければ、そうとも限りません。何かの能力が弱いと、人は別の能力でそれを補おうとします。
例えば自閉傾向がある場合は「人の気持ちを読み取る」という能力が弱くなります。しかし、人の気持ちが読めないことと、他者への配慮が出来ないことは別のことです。人の気持ちを読みづらいぶん、逆に人の気持ちを気にかけるようになります。それが「人への思いやりと配慮に満ちた人」という評判につながることもあり得ます。
しかし、本来の能力を別の能力で補うのは、どうしても無理がかかります。例えば、人の気持ちに敏感になりすぎると、自分の気持ちが周囲の人の気分に左右されてしまいます。同僚が何かの理由で腹を立てて汚い言葉を口走っている場面を想像して下さい。その怒りの矛先が自分ではないことは分かっています。もちろん、隣に怒っている人が居るのは誰にとっても気分の良いものではありません。しかしながら、人の気持ちが気になりすぎて、自分の仕事が手に付かなくなってしまう、というのは誰にでもあることではありません。
他にも、自分としては他の人の気持ちを十分おもんぱかっているつもりでも、なぜか「人の気持ちの分からない人」という非難を受けてしまうとか。自分の行動や言葉が相手を傷つけてしまってないか、事後になって気になって仕方ないとか。
別の例として「二つのことが同時に出来ない」という例を挙げましょう。例えば、電話をしながら話の内容のメモが取れない、というやつです。話に集中するとメモが取れず、メモに集中すると相手の話を聞き逃すというパターンです。
同じことですが、仕事をしていて、別の仕事に割り込まれると、元やっていた仕事を忘れてしまう、というのもあります。この問題があるので、仕事をしているときに、電話がかかってきたり、上司に声をかけられると怒り出すこともあります。普通の職場では、作業中に上司に声をかけられたら作業を中断して上司と話をするものですが、発達障害の人を雇う特例子会社の職場では、作業中に声を掛ける上司のほうが悪いという理屈になります(環境調整の例)。
ADHDの場合には、整理整頓ができない症状が出ます。片づけや掃除が苦手なので部屋がぐちゃぐちゃになってしまいます。しかし逆に苦手だからこそ、強迫的にいつもきっちり片づけることもあります。こういう人がお母さんになると、子供が部屋を散らかすことにイライラします。小さい子供は散らかす存在であり、片づけない存在です。それを何とかしようと、親に過剰なしつけがしばしば虐待に発展していきます。
実行能力(遂行能力=executive functions)の問題もしばしば取り上げられます。これは、ある目標を与えられたとき、その期限から逆算していつ頃何をやるのか計画をたて、それを実行していく能力です。これは様々な能力の統合です。夕食にカレーを作るなら、何時頃買い物に出かけて、材料として何を買って、それを買うお金が足りないからまず銀行に寄って、という、計画し、そのとおり実行し、計画外のことが起きたら計画を修正しつつ目標を実現する能力です。この能力が弱いと、何月何日までに完成させろと仕事を与えられても、〆切の日に全然できてないってことが起きてしまいます。
代償的には、計画を細かく立てて、その通りに実現しようとします。計画通りに進めばいいのですが、計画外のことが起こるとパニックになったり、ストレスに感じられたりします。
いろいろな例を挙げましたが、発達障害のパターンは様々なので、ある能力の弱さとそれに対する補い方もこれ以外にたくさんあります。しかし、どれを見ても、なんだか負担が重そうで疲れそうですし、自分だけでなく周囲にその負担を押しつける結果にもなりがちです。その負担が「うつ症状」という形で出てきやすいのも想像できるでしょう。そうなれば、それは単なる凸凹ではなく「障害」ということになります。
では、発達凸凹の場合にはどうすればいいのか。
それは、自分が何を苦手としているか把握することです。無茶な適応戦略を採っているのなら、もっと自分にも周囲にも無理のない戦略に切り替えることが可能になります。杉山先生の本でも、「彼を知り己を知れば百戦危うからず」という孫子の兵法を引いて説明しています。
もちろん、この場合難しいのは己を知ることです。例えば、人の気持ちを読み取る能力が弱い人に対して、それを指摘したとします。しかし、その人が無自覚のうちに能力の弱さを感じ取って、かわりに人の気持ちを推し量り配慮を効かせる代償戦略を採り、しかもそれにある程度成功していたとしましょう。この人は自分が「人の気持ちを読み取る能力が弱い」とは思っていないでしょう。むしろ、その能力が人より秀でている思っているに違いありません。
能力の弱さが認められなければ、別の戦略を採ることもなく、その人の生き辛さは解消されずに残ることになります。これが「己を知ること」の難しさです。
発達障害の支援をしている人たちで、センスの良い人たちは、当然「己を知る」ことにも長けるようになります。杉山先生はアスペルガー的傾向があることを認めてらっしゃるし、福島の星野先生はADHD傾向を認めた話を書かれています。もちろん不適合のない凸凹のレベルという話なのでしょうが。その他の沢山の人たちも同様です。
この雑記で発達障害の事を読み、それが部分的であれ自分に当てはまって不愉快な気分になる人もいることでしょう。
しかし考えてみて欲しいのです。人間とは不完全なものです。そして、大多数の人は自分が不完全な存在であることを受け入れ、納得しています。自分が完全な存在であることを期待するほうが、どこか病んでいるのです。
突然12ステップの話になってしまいますが、ステップ2で必要なのは「神を信じること」ではなく、「自分が神でないことを知ること」です。こう言うと、自分が神でないことなど分かっていると反論される方がいます。自分は神でないと言いながら、一方で自分の完全無欠さを信じ、凸凹の存在から目を背けています。まさにそれこそが「神であること」です。
僕らは、アルコール(や薬物やギャンブル)をコントロールする「能力がない」と認めることが幸せにつながりました。もし「能力がある」ことにこだわっていたら、今ごろアディクションのせいで死んでいたでしょう。能力があることではなく、能力がないことを認めることが、人を幸せに導くのです。同じことは発達障害あるいは凸凹にも言えることです。
彼を知り己を知れば百戦危うからず。難しいのは己を知ることです。せっかく発達障害という分野にふれる機会を持ったのなら、自分がどんな凸凹を持っているか知り、どんな無理をしているか知るように努めるべきだと思います。
2012年01月02日(月) 発達障害と発達凸凹(その1) 「心の家路」の更新履歴を見ると、このサイトは2002年1月24日に初公開しています。(雑記はそれ以前から書いていますがそれは含めないとして)。1月の末になれば10周年というわけです。
2012年は政治の年です。アメリカ、ロシア、韓国で大統領選挙が行われ、中国でも党大会が開かれます。日本でもおそらく総選挙になるのでしょう。
今年の総選挙で、日本人が本当に原子力発電所の撤廃を望んでいるのかどうかがはっきりすると僕は考えています。表現を変えれば、日本人の多くは原発の撤廃を望んでいることは間違いないと思いますが、その思いが実際の投票行動にどれだけ影響するか。撤廃が重要なことだと思っていれば、それを約束する政党が大躍進するでしょうし、そうならないのなら、皆が放射能のことをそれほど深刻には捉えていないということになります。日本人が本当のところどう思っているか、それが分かると思うのです。
さて、杉山登志郎先生の『発達障害のいま』という本を、ようやく読了しました。ここ数年の発達障害に関する進歩がまとめられており、発達障害についてある程度の知識をすでに得ている人には「次に読む本」としてお勧めです。
ところで、「ひいらぎさんの雑記を読んでいたら、あの人もこの人も発達障害っていう気になってきた」という問いかけを受けました。
それについて書こうと思っていたのですが、実はさらりと説明するだけで済まない話題なので先延ばしになっていました。
杉山先生がどこか(たぶん「こころの科学」)に書いていた文章に、こんな話がありました。看護師が杉山先生のところに着任すると、仕事に必要なので発達障害について学び始めます。そして数ヶ月すると、外来に来た人が「あの人も、この人も、みんな発達障害」に見えてしまう、という訴えをするのだそうです。もちろん児童精神科医のところへ来る患者が全員発達障害のはずがありません。
発達障害の「障害」は、元は「障碍」という字を使っていました。ところが「碍」が当用漢字に入っていないので、同音の害の字を使っています。「碍」は妨げるという意味です。妨害という言葉も元は妨碍と書きました。(碍子は電気の導通を妨げる装置です)。
だから障碍(障害)とは、何らかの妨げによって、その人の能力に障りがあることを意味します。能力の発達が阻害されたのが発達障害です。
ところで、人は様々な能力を持っていますが、全ての能力が均等に発達することはあり得ません。例えば学校のテストで5教科すべてが同じ点数という生徒はまずいません(教科ごとの難易度の違いを差し引いても)。得意な科目もあれば不得意な科目もあるのが人間です。勉強以外の様々な能力についても同じことが言えます。
人は誰しも能力の凸凹を持ちます。それは能力の発達の凸凹です。前出の看護師は、その凸凹を敏感に感じ取ってしまったと言うわけです。
その凸凹が激しい人もいれば、あまり凸凹が目立たない人も居ます。そして、凸凹が激しい人のなかに、その凹の部分が足を引っ張って、社会的に不適合を起こしてしまう人が出てきます。その状態に発達障害という名前を付けているのです。
人はなぜ発達障害の診断を受けるのか。何も問題が起きていないのに、「いっちょ診断でも受けてみっか」と専門医を訪ねる人はいません。やはり何か問題が起きているからこそ医者にかかるのです。
だから、同じ程度の能力の凸凹を抱えていたとしても、社会的不適合を起こしていなければ(つまりその人も、周りの人も困っていなければ)発達の凸凹にすぎないわけで、不適合を起こすことで発達障害という診断に至ります。
その不適合とは、例えば仕事に就けないこと、学校に行けないこと、暴力を振るうこと、迷惑行為を繰り返すこと、依存症になること、うつ病などになることなどなどです。
というわけなので、僕が雑記で発達障害の様々な表現形について書いたことが、自分あるいは他の誰かに当てはまると思っても、その人に社会的不適合が生じていないというのなら、発達障害ではなく発達の凸凹と捉えてもらえばよいのです。言っておきますが、凸凹の無い人はいません。誰しも得手・不得手があり、人が人生につまずくときは、得意なこと(凸)でつまずくのではなく、苦手なこと(凹)でつまずくのです。
さて、発達障害にも様々な種類がありますが、目立つのは何と言っても「自閉症スペクトラム障害(広汎性発達障害)=ASD」と「ADHD(注意欠陥多動性障害)」です。
僕の雑記の中に書かれた発達障害についての表現が、自分や他の誰かに当てはまると思うのならば、やはりそれは自閉圏(ASD)あるいはADHDの傾向を、いくぶんか持っているということでしょう。それが「障害」と呼べるレベルかどうか、それだけで判断してはいけません。
大切なことは、人は全能力が均等に発達した「真円」ではなく、様々な能力が凸凹に発達したいびつな存在であり、その不完全さこそが「人間らしさ」です。
はてさて、この雑記を書き起こしたのは、
「では、発達障害に至っていない凸凹レベルであれば、何も問題ないのか?」
ということを書きたかったからです。それについて、前掲の杉山先生の『発達障害のいま』の内容の一部や、その他のことも含めながら、書いておこうと思います。
(続く)
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