心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2011年09月05日(月) セラピー(治療)と支援の違い

信州発達障害研究会での、小栗正幸先生の講演を録画したDVDを見ています。
小栗先生は、法務省の心理技官として少年医療刑務所で少年の更生にたずさわった人で、発達障害の専門家です(多くの触法少年に何らかの発達障害が見られるため)。

その講演のある部分が気になって、DVDのその部分を何度も見直してしまいました。

小栗先生は、まず「一対一の人間関係はあまり社会的なものではない」とおっしゃっています。「皆さんの中に、今まで一対一の関係の中で何かを成し遂げた経験を持つ人はいらっしゃいますか?」と先生は聴衆に問いかけます。

トム・ソーヤーとハックルベリー・フィンの冒険のように、一対一の関係の中で素晴らしい経験をすることもあり得ます。しかしそれは珍しいことで、たいていの人にとって一対一の関係の中で素晴らしい経験があったすれば、それは「恋愛」でしょう。恋愛というのはアブノーマルなものであり、だからこそ何才になっても恋愛することは素晴らしいと言われるのです。

先生は、子供たちに「恋愛の場面で起きる様な一対一の濃密な対人関係スキルを学習させようとしているわけではない」と続けます。むしろ、大勢がいる場面で要求されるようなスキルを学んでもらうことが目的となるわけです。その例の一つは挨拶です。仲間に入れて欲しいときに「俺も仲間に入れてくれ」と頼むことや、入れてもらえたら「ありがとう」と礼を言い、失敗したときは「ごめん」と謝ることです。

(某断酒系掲示板を見ていると、アル中さんたちの中にこの社会的スキルを持たない人が目立つことに気づかされます。それも掲示板の雰囲気が荒れる一つの原因でしょう)。

一対一の人間関係があまり社会的なものではないと指摘したのはフロイトなのだそうです。精神分析の自由連想法による治療では、患者は心に思い浮かんだことを何でも隠さずに話すように求められます。つまり、このセラピー(治療)では、被治療者が何を言っても、何をやっても許される雰囲気が作られねばなりません。

一方、支援の場合には、何を言っても何をやっても許されるだけではなく、「待て」と制止することが必要になります。何を言っても、何をやっても許される環境は、子供返り(退行)を起こさせます(それまでに手に入れた社会的スキルを使わなくてもすむため)。支援者と被支援者の間に信頼関係を作るためには、何を言っても受容される関係も必要になるものの、どうやって子供に社会性を身につけさせ、集団生活に戻していくかという戦略も必要になる・・。

というのが小栗先生のお話でした(講演はまだまだ先へ続きますが、とりあえずここまでにして)。

これを聞いて僕は考え込んでしまったわけです。AAのミーティングは「言いっぱなしの聞きっぱなし」で進行します。ディスカッション・ミーティングと言われながらも、debate は行われず、他の人の話に口を挟んだり、質問したり、反論したりということは禁じられています。

「言いっぱなしの聞きっぱなし」という仕組みが採用されているのには、いろいろな理由があるのでしょう。その一つがこの「何を言っても、何をやっても許される」必要があるということなのでしょう。支援において被支援者(子供)が支援者(大人)に隠さずに自由にものが言える環境を作ることで信頼関係を作るように、新しくAAにやってきたビギナーは、この「言いっぱなし、聞きっぱなし」のシステムによって受容され、「待て」と言われることなく、他のメンバーとの信頼関係を築くことができる仕組みなのでしょう。

「待て」と言われることは、つまり「お前の言っていること、やっていることは間違っているぞ」と指摘を受けることです。アル中の一番嫌いな言葉はNoです(自分の意見がYesと肯定されることばかり求めるものです)。AAミーティングに「待て」を導入したら、言われたビギナーはもう来なくなるでしょう。(古いメンバー同士だっていがみ合いが始まるでしょうし)。

「言いっぱなし、聞きっぱなし」のミーティングは、ビギナーを受容し、他の仲間の支えにつなげる効果があるわけです。それは社会性の薄いアルコホーリクが集団でうまくやっていくための手段ということになります。しかし同時に「言いっぱなし、聞きっぱなし」が子供返り(退行)を引き起こすこともあるでしょう。実際、何年もAAにいて酒は止まり続けているものの、仕事が長続きしないとか、AA以外の人間関係がうまく作れないとか、AAの中でも議論が発生するサービスの分野ではめげてしまうとか・・・そんな例はいくらでもあるわけです。

そういった問題を解決するのは、スポンサーシップ、そして12ステップの役割なのでしょう。社会性の薄いアルコホーリクを受容して支えてくれるのがミーティングならば、その人が社会集団の中でやっていけるように戻してくれるのがスポンサーシップと12ステップ、という分担なのではないか。ミーティングで癒しを求めるのは結構なことなのですが、そればっかりだと、その人が社会でやっていくスキルが身に付かないわけで、アルコホーリクにはそのどちらも必要なものに違いありません。

小栗先生の話を聞きながら、そんなことを考えたのです。


2011年09月01日(木) アディクションからの回復とは何かを定義する

Faces and Voices of Recovery(回復の顔と声)のニューズレターを読んだところ、こんな記事が載っていました。

What is Recovery? 回復とは何か
http://www.facesandvoicesofrecovery.org/publications/enews/2011-08-17/recovery_definition.php

SAMHSAというアメリカの政府機関があります。「薬物乱用精神衛生管理局」とでも訳せばよいのでしょうか。そこが「アディクションからの回復の定義」に関するパブリック・コメントを募集しています。・・いや、8月26日までだったからもう過ぎちゃったのか。

「依存症からの回復」とは何を意味するのか、それに興味をお持ちの方もいらっしゃるでしょう。

きちんとした翻訳は提供できませんが、内容をざっくりと紹介します。
SAMHSAのスタッフ Alexandre Laudet が、なぜ回復を定義する必要があるのかブログで語っています。

Recovery Defined - Give Us Your Feedback
http://blog.samhsa.gov/2011/08/12/recovery-defined-%E2%80%93-give-us-your-feedback/

回復中の人たちは、「回復とは何かを定義する必要はない、なぜなら私たちはそれが何か(経験上)知っているからだ」と言います。それは100%正しい。回復中の人たちは、自分のことを回復中だと言うことができるし、他の人についても、また家族でもそれは同じです。

さてアディクションに対して様々なサービスが提供されるようになってきたのは良いことです(ここでいうサービスとは回復施設やカウンセリングなどを言うのでしょう)。ということは、回復を提供するサービスに対して、納税者の支払った税金が使われるようになるということです(助成金という形で税金が分配されたり、行政がサービス提供業者に業務委託することを指しているのでしょう。日本の施設でも助成金や自立支援の仕組みを利用して税金が投入されています)。

そうした業者は、政府や社会に対して「販売」しているサービスの質に責任を持つ必要があります。私たちがガンや心臓病について病院や医師の治療実績を比較したいと思うのと同じように、アディクションからの回復を提供する業者AのサービスBを評価するためには、まず回復とは何かを定義する必要があります。

良いサービスを提供するためにはそうした評価基準がどうしても欠かせません。多くの業者(施設)が回復サービスを提供するために公的資金を獲得しようと「競争」しており、私たち(政府)が最善の業者を選ぶためには、彼らの治療実績を調べ、どの施設が良い仕事をしているか知らなければなりません。

「回復とは何か」を定義するのは、より良いサービスが提供されるようにするためです。そのためには、回復に必須の要素が明らかにされねばなりません。どうやってそれを得るか(12ステップ、瞑想、治療など)ではなく、回復に含まれなくてはならない ingredients (成分)のことです。症状がおさまることだけでなく、それに何を加えましょう? 社会への貢献? 人間関係や家族関係の改善?

ここまでが、Faces and Voicesの記事です。紹介されているブログの記事に飛んでみると、SAMHSAではすでに以前の調査で、回復に欠かせない要素のジャンルわけをしているようです。

・健康 - 身体的、精神的に健康に暮らせるように、疾病を克服あるいは管理できていること。
 (ときどきスリップしています、というのは回復とは言えないわけだ)

・住居 - 安定し、安全な生活の場所。
 (酒を飲んでなくてもホームレス状態では回復とは確かに言いづらいですね)

・目的 - 日々の意味のある生活、例えば仕事、学校、ボランティア、家族の世話、創造的な努力。そして自立、収入、社会参加するための財力。
 (酒は飲んでなくても、引きこもってゲームばっかりでは意味のある生活とは言いづらいかも)

・コミュニティ - サポート、友情、愛情と希望を提供してくれる人間関係や社会的関係。
 (かならずしもそれが自助グループでなくても良いのでしょうけど)

この4ジャンルについて基準が決められていくのでしょう。
アメリカの回復に関する議論を読んでいると、必ず登場するのが「住居」の話です。向こうではホームレスになりやすいのかもしれませんし、シェルターの必要性の議論にもつながります。

個人的にコメントを加えると、このジャンルわけには「スピリチャリティ(霊性)」は入っていません。スピリチャリティはそれ単独で計れるものではなく、より実際的なこと(例えば上の四つのジャンル)に反映されるべきものだからです。

そのうち雑記で紹介しようと思いながら、忙しがっているうちにパブコメの期限も過ぎていました。アディクションの世界では、アメリカで形作られた概念は5年後、10年後に日本に入ってきています。おそらくその頃日本でも「回復ってこういう定義だとアメリカでは決められている」という話が広がっていくのでしょうね。


2011年08月31日(水) AC=アル中

ACのステップについて以前に書いたときに、トニー・Aの「14の特徴」を引きました。

洗濯物リスト アダルトチャイルドの14の特徴
http://www4.hp-ez.com/hp/acafukuoka/page4/bid-83311

そこから、アダルトチルドレン(AC)は疑似アルコホーリックであるという話をしました。

たまにAAで、こんな話を聞くことがあります。

父親が嫌いでたまらなかった。酒を飲んでばかりで、家族に横暴に振る舞う父親を嫌いになるのは当然だろう。だから、大人になっても、絶対に親父みたいにはなるまいと、固く心に誓っていた・・・そのはずなのに、気がついてみると、自分も親父と同じアル中になっていたんだ。

アディクションは、人にやりたくないことをやらせ、なりたくないものにならせる、と言いますが、「自分にあんなことをした親父と、今の自分は同じことをしている」わけです。基本的にACのストーリーはこういう構造をしています。

ACというのは、酒を飲んでアル中にはならなかったが、親のアル中と同じ行動をする人になってしまっているわけです。飲まずにアル中になれるんだから、それはすごい才能です。もちろんそれは、アル中でない機能不全の家族のACにもあてはまります。

だから、アル中とACは違う(だから違うステップが必要だ)、と考えるのは、ACの何が問題なのか理解していないわけです。

このように違い探しをしてしまうのは普通のことです。依存症の本人だって、たとえばアルコールの人は、「俺は違法薬物を使うヤク中とは違う」とか「酔ってないのに狂えるギャンブラーとは違う」などという違い探しに熱心になります。これは否認の一種であり、いろんな依存症の共通性に気がつくのは、多少なりとも回復が進んでからです。

ACの場合にも、アル中との表面的な違いに気を取られて、否認が起きてしまうのは無理からぬことです。アル中の場合だって、親が覚醒剤の場合には、子供は「俺が飲んでいるのは合法的なアルコールだから親父とは違う」という言い訳が出てきます。人の問題ではなく自分の問題に目を向けなければ、解決の糸口が見つかりませんし、違いを探すのではなく同じところを探さなければならないのです。

物事を支配しコントロールするために、権勢的になるか、それとも従順な態度で結果を引き出そうと取引するかは、戦略の違い(つまり表面上の違い)であって、本質ではありません。

というわけで、アル中とACの違いを探してみるのは、単なる否認の態度だと断言してかまわないわけです。


2011年08月30日(火) 医者は治してくれない(その3)

AAの始まりは、二人のアルコホーリクが出会い、お互いの飲酒体験を分かち合い、支え合うことで断酒継続を可能にした・・と説明されることがよくあります。

何十年も前ならいざしらず、現在の日本ではアルコホーリクどうしの出会いは頻繁に起きています。アルコールの専門病院には多くのアル中が入院しており、ネット上には断酒の掲示板がありオフ会をやっているところもあります。もし、二人のアルコール依存症者が出会って、体験を分かち合うだけでAAが誕生するのなら、今頃日本はそこらじゅうAAだらけになっているはずです。でも、現実にはそうなっていません。ということは、それだけでは足りないということです。

ジョー・アンド・チャーリーのビッグブック・スタディに接した人は、まず最初にAAがどのようにして始まったか説明が続くことをご存じでしょう。ルター派の牧師ブックマンが作ったオックスフォードグループのプログラム。スイスの精神科医ユングがローランド・ハザードに伝えた霊的体験の必要性。これらを受け継いだエビー・サッチャーのメッセージ。ビル・Wに伝えられたシルクワース博士の病気の概念。こうした様々な要素が積み上げられ、最後に同じオックスフォード・グループのメンバーだったドクター・ボブとの出会いによって、AAはようやく形をなし始めました。

AAが始まるためには、これらがすべて必要で、何が欠けても成り立ちませんでした。つまり、

同じ問題を抱えた人たちが集まって体験を話し合うだけで自助グループができあがるわけではない

それだけでは足りないのです。これは、実は「不都合な真実」でした。

前回までの雑記で書いてきたように、依存症は医者には治せない病気です。
シルクワース博士はビッグブックで「アルコール薬物依存の治療では、全米でも最も由緒ある病院の医長を務めている」とその実績を誇りつつ、同時に「精神医学の成果によって得られた回復の合計は相当な数にのぼってはいるが、問題全体からみれば小さいシミをつけた程度にすぎないことを認めざるをえない」と述懐しています。
彼はアルコールの専門医として生涯で5万人ものアルコホーリクを診ましたが、AAが始まるまでは治療の成功率は約2%に過ぎなかったと言い残しています。

医者がダメなら、ではどこへ行けばいいのか。そう聞かれて困ってしまうのは、医療職だけでなく、保健所などの援助職の人たちも同じです。まだアルコールの問題は断酒会が古くから活動していたから良かったものの、薬物やギャンブルや、ましてその配偶者や子供の世代の問題となると、紹介する先のない援助職の人たちは困ってしまったわけです。特に地方ではグループもないし。

そこへ「同じ問題を抱えた人たちが集まって体験を話し合う自助グループというものがあり、それが解決策だ」という理屈が忍び込んでいったのでしょう。人々を同じ部屋に入れて話し合わせておくだけで問題が解決するのなら、医療職・援助職はそれ以上コミットする必要がありません(楽ができる)。

1980年代、90年代に自助グループやピア・サポート・グループが礼賛され推奨されるようになった背景には、こうした援助職側の都合があったとみて間違いありません。当事者の集まりにも方法論(たとえば12ステップ)が必要であり、ただ話し合っているだけでは、一時的に気が紛れても、問題の解決には至りません。

そんなわけで、全国各地で当事者が、医療職・援助職に促されて自助グループを作ってみたものの、グループを熱心に維持する人が去ると同時にグループが消える、ということが繰り返されてきました(方法論が確立していなければ、リーダーシップに頼るしかないため)。グループが継続的に発展することはなく、有効性を持つこともなく、深刻な問題を解決する社会資源たり得たことはありませんでした。

方法論の必要性は、自助グループを立ち上げる際にはハードルとなります。そんなハードルは取っ払ってしまえ、という考えから方法論など不要という意見が生まれてきます。やがては断酒会やAAという先行グループにもそうした意見が浸透していくことになりました。

つまり、医療職・援助職の人たちは、問題の解決を自助グループに丸投げしてしまったのです。それは専門性の放棄でした。とりわけACの問題は「それは病気ではないから」という理由で完全に自助グループに丸投げされました。

問題の解決は当事者の自己責任に任されました。「自助=セルフヘルプ」という言葉が、如実にその理念を物語っています。最近の、自助グループという呼び名を相互援助グループに変えていこうという動きには、押しつけられた責任に対する反発も含まれているのでしょう。

ではどうすればいいのか?

ひとつには「当事者グループには方法論が必要である」という認識を広めていく必要があります。そうしなければ、当事者の苦労はちっとも減りません。

もう一つ、すでにあるグループや、これからグループを始めようとする人たちに方法論を供給する仕組みが必要です。医療職・援助職の人たちがある種の専門性を放棄するのなら、かわりに当事者側に専門性が確立されなければなりません。専門性というのは必ずしも職業と結びついたものではなく、素人(lay)による専門性があっても構わないのです。

これは自助グループがフラットな仕組みではなく、専門性を持った人とビギナーに構造化されることを意味しますから、それに対する反発もあるでしょう。元々自助グループは、方法論を携えたスポンサーと、それを受け取ろうとするビギナーの関係から成り立っており、それがグループを継続、発展させる原動力にもなるのですから、それを否定したら話が進みません。

「依存症からの回復研究会」はジョー・マキューの12ステップを自助グループの人向けに紹介する活動を続けていますが、これも方法論を供給する仕組みの一つに数えて良いでしょう。回復研の集会が何百人という聴衆を集めるのは、方法論の需要がそれだけ高いことを示しています。

もう何年も前になりますが、AAの四谷ビッグブックグループが Back to Basics をベースにしたビギナーズミーティングを始めたところ、毎週百人以上が詰めかける騒ぎになりました。特別なミーティングではなく、普通のAAミーティングにすぎないのにです。それは、人々が「そこに行けば12ステップが分かる」、つまり方法論が得られる、という話を聞きつけたからでした。

当事者の側は自分の問題を解決する手段(方法論)を強く求めています。であるのに、当事者でない人たちが「当事者グループには必ずしも方法論が必要ない」と言ってしまうのが困った話です。

お願いしたいことは、ひとつは「当事者グループには方法論が必要である」という認識を広めて欲しいということです。また、方法論が既存・新設のグループに浸透していくように、当事者たちを励まし背中を押してくれるのなら、実にありがたいことであります。

(この項おわり)


2011年08月29日(月) 医者は治してくれない(その2)

アルコール依存症の薬としては、ベルギーの会社が作ったナルトレキソンや、フランスの会社が作ったアカンプロセートという薬もあります。調べてみると、ナルトレキソンはオピオイド(モルヒネやヘロイン)のアンタゴニスト(阻害薬)をアルコール依存症に転用したもの。アカンプロセートについて詳しい情報は見ていませんが、wikipediaによればこれもアンタゴニスト(阻害薬)のようです。チャンピックスと同じように受容体に先にくっついてしまい、アルコールが受容体にくっつくことを妨げ、酒を飲んでも心地よいと感じさせなくなる効果を狙っています。

ナルトレキソンやアカンプロセートが、チャンピックスのような鮮やかな効果を出せるかどうか・・それははなはだ疑問だと思います。

チャンピックスの成功は、タバコをやめる気がない人(動機付けがされていない人)を対象から外すことで成り立っています。アルコールはそうではありません。ニコチンよりはるかに害が大きいため、本人がやめたくなくても、やめてもらわなくては困る病気とされています。動機付けの薄い人たちに薬を飲ませても、効果はあまり期待できないでしょう。

もう一つはアンタゴニスト(阻害薬)としての限界です。ナルトレキソンやアカンプロセートは日本では治験すら行われていませんが、僕らは別の種類のアンタゴニストをすでに使っています。シアナミド(商品名シアナマイド)やジスルフィラム(商品名ノックビン)は、脳の報酬系に働くわけではなく、肝臓のアセトアルデヒド分解酵素の働きを阻害して、飲酒すると気分が悪く苦しくなる効果を狙っています。

抗酒剤は断酒の三本柱の一つと言われていますが、それは抗酒剤だけでは断酒維持の効果が薄いことを示しています。人間には知能がありますから、飲んで気分が悪くなる原因がシアナマイドだと知っていれば、酒を飲みたければシアナマイドを飲むのをやめてしまうだけの話です。

ナルトレキソンやアカンプロセートでも同じ事が起こると予想されます。こちらは気分が悪くなるわけではありませんが、代わりに酒に酔う陶酔感を奪います。酒を飲んでも気持ちよくなれないのなら、酒は飲まない・・とはアル中は考えません。気持ちよくなれない原因であるところのナルトレキソンの服薬を勝手に中止してしまうだけでしょう。今現在シアナマイドで起きているのと同じ事が起きるだけです。

科学が「それ」をやり遂げるのは、まだまだ先になりそうです。

では、薬物療法が無理なら、他の療法を医者が使えば良いではないか? と思われるかも知れません。しかし、保険診療では医者が薬物療法以外の選択をするのは難しいのです。その理由についてはこちらの雑記に書いておきました。

薬物療法への偏りの原因
http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/day?id=19200&pg=20110223

日本ではカウンセラーの資格として、専門学校レベルの「心理療法士」と、大学院レベルが要求される「臨床心理士」の二つの資格があります。このうち病院で働く場合やスクールカウンセラーになるには臨床心理士を求められます。その臨床心理士によるカウンセリングであっても、保険診療として認められず、やるだけ病院の持ち出しとなってしまいます(あるいは患者10割負担の自由診療)。医師が治療手段としてカウンセリングを選びにくくなっているわけです。日本の行政が医療をそのようにデザインしているわけです。

日本の精神医療が薬物療法ばっかりになってしまうのは、行政や医療機関側の問題ばかりでなく、患者側の選択によるものでもあると僕は思っています。

僕は社会不安障害や強迫神経症、つまりいわゆる「神経症」の人たちから治療機関を紹介してくれと言われることがあります。日本には森田療法という優れた治療法があり、数は少ないけれどそれを行っている医療機関もあります。今まで薬で治療して治っていないんだったら、森田療法はどうですか? と言うのですが、今まで一人として森田療法をやってみようと出かけていった人はいませんでした。誰もが(今まで薬で治っていないにもかかわらず)「できれば薬で治したい」という希望を持っているのです。

医者が薬で治せないのなら、他の治療法は一切拒否・・というのは、アルコール依存症も同じで、医者が治せないのなら誰にも治せない、と決め込んでしまって、断酒会にもAAにも行かずに再飲酒を繰り返している人はたくさんいるのです。

「医者には治せない」だけでなく、「自分も病気を治したくない」のです。

(一応さらに続くつもり)


2011年08月25日(木) 医者は治してくれない(その1)

さすがに忙しすぎて他の人のブログや日記など目を通せていません。雑記も毎日書くのではなく、まとめて書いておいたものを分割して投稿するようにしています。

さて、久しぶりに「医者は治してくれない」という言葉を聞きました。

依存症は治癒する病気ではないので、この場合の「治る」は、アルコールの場合で言えば、再飲酒して病気がぶり返す可能性が心配しなくて良いほど小さい状態が維持されること、いわゆる回復ということを言うのでしょう。

依存症を治療できる薬はまだ作られていません。ビッグブックのp.45に「科学はいつかそれをやり遂げるかもしれないが、まだ実現していない」という文章が書かれたのは、おそらく1937年頃でしょう。それから70年以上経った今も、相変わらず実現していません。

最近「チャンピックス」という禁煙補助薬が人気だそうです。ニコチン依存症には薬が効く時代になった・・と言って良い時代なのかも知れません。チャンピックス(成分名バニレクリン)は脳内のニコチン受容体に作用してニコチンのパーシャルアゴニストとして働きます。

人が喫煙して体内に取り入れたニコチンは、脳内のニコチン受容体に結合します。するとドパミンやノルアドレナリンの過剰放出を引き起こします。こうした物質は快感や覚醒を扱っているため、タバコを吸うと人は気分が落ち着き、頭が少しスッキリする感覚を「実際に」味わいます。気のせいではないわけです。こうしたメリットがあるからこそ、人はタバコを吸います。

タバコを日常的に吸っていると、血中のニコチン濃度が高いのが常態となります。血中ニコチン濃度が下がってくる→受容体に結合するニコチンが減る→ドパミンやノルアドレナリンの放出量が減る→イライラして落ち着かなくなるという仕組みができあがります。だから血中濃度を上げるために「次の一本」を吸う薬物摂取行動に移ります。アルコールであれ、覚醒剤であれ、処方薬であれ、物質系の依存にはこの仕組みが共通していると考えられています。脳内の報酬回路に人の行動が支配されているわけです。

バニレクリンは、ニコチンの代わりに受容体にくっついてしまい、しかもニコチンほどドパミンを放出させません。チャンピックスを服用している状態でタバコを吸っても、ニコチンはバニレクリンに邪魔されて受容体にくっつけず、タバコを吸った効果を味わえません。(その意味では阻害薬=アンタゴニストとして作用している)。タバコを吸っても効果がなければ、吸おうという動機は薄らぎます。

さらに、ニコチンほどではないものの、バニレクリンは受容体を軽く刺激して少量のドパミンを放出させることで、少しだけニコチンの代わりを務めます(部分的な作動薬=アゴニスト)。これによってニコチンを断ったときの離脱症状を和らげてくれます。吸わなくてもイライラ感が少なければ、止めるのは楽になりますから。そして次にチャンピックスを減量していきます。

「チャンピックス」の成功は、服薬を禁煙の動機を持った人に限っているからでしょう。これは厚生労働省が定めたニコチン依存症に対する保険適用の基準に「禁煙を希望していること」が含まれているからです。これだと、やめたいのにやめられないのが依存症であって、吸いたいから吸っている人は依存症ではないことになります。同じ基準をアルコールに使うと、「俺は飲みたいから飲んでいるんだ」という人は依存症ではないということだ。まったく、やれやれです。

チャンピックスによって禁煙の成功率は上がったものの、弊害も言われています。簡単にやめられるぶんだけ、禁煙を維持するモチベーションが下がり、再喫煙が多いのだそうです。「吸っちゃったら、またチャンピックスでやめればいいや」というわけでしょう。僕の目の前に座る同僚も、そのとおりの発言をしています。以前のニコチン置換療法に比べてチャンピックスの禁煙維持率が低いという疫学的なデータがあるのか知りませんが、さもありなんという話です。

人は簡単に手に入るものには価値がないと見なしがちです。捨ててもまた簡単に手に入ると思うからです。友人から無料でもらったアドバイスはすぐに忘れますが、何万円も払ったカウンセラーから得た指示は一生忘れないものです(例え中身が同じでも)。だから相手のためを思うなら、無料でカウンセリングをするな、無料でものを教えるな、千円でもいいから金を取れ、と言われるわけです。同じことはあらゆる分野のコンサルタントにも言われています。

(AAのスポンサーはスポンシーから金を取るわけにはいきませんが、なるべくスポンシー側に手間をかけてもらって、伝えたステップをスポンシーが一生大事にするようにし向けるのが、良いスポンサーだという理屈になります)

こうした問題を避けるために、1年以内の再治療は保険適用としない、という仕組みでチャンピックスの販売が始まったはずが、いつのまにかその制限は取り払われています。これもチャンピックスの再喫煙の多さを間接的に示す事実です。

ニコチン以外にも依存症の薬物療法は行われています。ヘロイン依存症にはメタドン(メサドン)という鎮痛剤が使われます。これはオピオイドの受容体に働くアゴニストで、ヘロインへの渇望を減らす効果があり、ヘロインより害の少ないメタドンへ置き換える「メタドン置換療法」として使われます。もちろん、今度はメタドンの依存症になってしまうわけで、ヘロインよりメタドンの依存症のほうがやめるのが難しいとも言われます。

(次回はアルコール依存症の治療薬の話)


2011年08月19日(金) ACのステップについて(その3)

ACについて最後は、では被害者性の治療はどうするのか、ということについて。

こんな例を考えてみます。アディクションを例に取ると混乱しやすいので、すこし距離を取って内臓の病気としましょう。

ある人が内臓の病気になったとします。しかもかなり重病です。そのおかげで働けなくなり、休職しているうちに会社の業績が悪化して、彼はリストラの対象となってしまいました。経済的にも精神的にも負担をかけている家族は、最初こそ気丈に振る舞っていたものの、やがてむっつりと不機嫌な表情をするようになり、家庭から安らぎが失われました。健康だったら実現できたはずの夢や楽しみを、その人も家族も諦めねばなりません。

その人はそうした運命を呪い、しだいにヒガミっぽい恨みがましい人になっていきました。世話をしてくれる家族に当たり散らし、不運な自分に何もしてくれない社会に不平ばかり持つようになりました。なるべく接したくない嫌われ者になっていきました。

時には寂しさのあまり、人の歓心を得ようと妙にへりくだった態度を取り、ご機嫌を取り、褒めそやすのですが、相手が自分の思い通りになってくれないと知るや、手のひらを翻したような悪口三昧になるのでした。

幸い薬石効あって、その人の病気は完治します。しかし元の職場には戻れず、前より条件の悪い会社で働かざるを得ません。周囲の人はそれでも幸運だ良かったと言いますが、その人にはそれが気に入らない。「本当であれば」もっと恵まれていたはずだという気持ちが晴れません。離れていった家族の心は戻らず、一緒に過ごそうともしてくれません。

病気は治ったものの、ヒガミっぽさ、恨みが増しさは取れませんでした。それが原因で周りの人々との軋轢が絶えず、時にはそのせいで退職しなければならなくなります。「どの職場に行っても嫌なヤツが一人はいる」というのがその人の信条です。その人は、自分は何も悪くない、自分がこうなってしまったのはすべて病気のせい、つまり運が悪かったからだと考えています。もし、こんな自分の何かを元に戻す必要があるとするなら、それをするのは自分ではなく、誰かがやってくれなくちゃならない。そうでないと割が合わない、というのがその人の考えです。

この人は病気の被害者です。しかし、すでに病気は治っているのです。なのにこの人の性格は元通りにはなっていません。この人を現在恨みがましくあらしめているのは、すでに治ってしまった病気ではなく、恨みがましくあり続けようとする本人の選択です。つまり自己責任です。この人は、恨みがましくあり続ける選択をすることによって、周囲の人を傷つけ続けているわけで、「被害者が加害者になっている」構図です。

この人の場合、内臓の病気は癒される必要がありました。ACの場合も同じです。親の養育によって心に傷を負い、それがトラウマとして残っているのなら、それは専門の治療を必要とします。12ステップで内臓の病気が治らないように、(軽いものなら知らず)重度のトラウマは12ステップの専門外です。カウンセリングやEMDRとかそういうものが必要でしょう。ACのケアとては「子供としてのプログラム」と呼ばれるものです。

さらに、この人の場合、内臓の病気が癒されても問題は残っています。そして、この残った問題には12ステップが有効であることはまず間違いないでしょう。同じように、ACの場合にトラウマの治療を行うことが、現在抱えている社会性の問題を解決することにつながっていかないのです。やはりその部分は12ステップを使って解決して行かなくてはなりません。これは「大人としてのプログラム」です。

内臓の病気と、それによって生じた性格の問題を混同しないように、ACの場合も虐待的な養育によるトラウマと、それによって生じた性格上の問題を混同しないようにしなければなりません。

そうした混同、被害者性を強調することによって回復の責任を他者に押しつけること、さらには一時的な免責を引き延ばしたい・・・そこらへんが「AAの12ステップとACの12ステップは違う」という誤解が生まれてくる元になったのではないかと考えています。

三回の雑記をまとめれば、ACはパラ・アルコホリック(疑似アルコホーリク)であって、その回復の過程も同じです。個人的に見てもACとアル中本人は基本的に同じです。例えば、なんとかステップ9で謝罪することを避けようと、いろいろ理屈をこね回すあたりは、まさにそっくりなのであります。誰かが言っていましたが、人に頭が下げられない人が、神さまに頭を下げられるわけがないのですから。

(この項おしまい)


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by アル中のひいらぎ |MAILHomePage


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